亀嶋山専称院|北区王子から旧乗蓮寺の地に移転
専称院の概要
浄土宗寺院の専称院は、亀嶋山地蔵寺と号します。もと豊島の地(王子)に地蔵堂として創建されました。宝永年間(1704-1711)に祐天上人によって中興され現寺号に改称しました。昭和7年都市道路計画により王子の地を離れ、当地にあった乗蓮寺塔頭香林庵を合併して移転してきました。
山号 | 亀嶋山 |
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院号 | 専称院 |
寺号 | 地蔵寺 |
住所 | 板橋区仲町44-1 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
専称院の縁起
専称院は、もと豊島の地(王子)に地蔵堂として創建されました。宝永年間(1704-1711)に祐天上人によって浄土宗に改宗の上中興され現寺号に改称しました。昭和7年都市道路計画により王子の地を離れ、当地にあった乗蓮寺塔頭香林庵を合併して移転してきました。
板橋区教育委員会掲示による専称院の縁起
宗派は浄土宗で、亀嶋山地蔵寺専称院と号し、御本尊は阿弥陀如来です。
むかし鎌倉時代の武将豊島清光が行基に7つの地蔵を作らせたという伝説があり、専称院の前身は豊島村(現北区)でそのひとつを祀る地蔵堂でした。
浄土宗の専称院となったのは、宝永年間(1704-1711)に豊島村民臼倉四郎右衛門の要請を受けた祐天上人によって中興され、堂宇の整備が進んでからです。荒川沿いにあったため、寛政12年(1800)水害の溺死者の供養塔が建てられるなど、水難者の供養寺としても有名でした。
専称院が都市計画道路建設によって豊島から当地に移ったのは昭和12年ころのことです。
もともと当地には、江戸時代初頭まで乗蓮寺があり、その後も乗蓮寺に附属する香林庵が残っていました。香林庵は明治7年(1874)に区域で初めて公立の小学校が設置された場所ともされています。(板橋区教育委員会掲示より)
いたばしの寺院による専称院の縁起
中世の頃から豊島七仏の一つを安置し庶民の信仰を集めていた地蔵堂があった。宝永2年、祐天が村民四郎左衛門の請を入れ豊島村地蔵堂として再建し、諸堂を整え、宝永4年に亀嶋山地蔵寺専称院と公称して小石川伝通院末となり、浄土宗に転宗した。文化10年に境内に閻魔堂を合祀し、子育地蔵と共に世人に親しまれ信仰を集めた。
昭和7年都市道路計画により豊島(現王子)より現地への移転を決し、同15年移転完了して香林庵を合併した。香林庵は明治7年7月板橋学校発祥の寺である。(いたばしの寺院より)
新編武蔵風土記稿による専称院の縁起
浄土宗小石川伝通院末、亀嶋山地蔵寺と号す。
本尊阿弥陀外に行基の作れる地蔵を安す。縁起の略に、豊島左衛門清光志願のことありて行基と謀り、豊島の内に七ヶ所の堂を建仏像七体を彫刻して安置す。是地蔵は其一なり、外六体は西福寺阿弥陀、清光寺不動、同き境内釈迦、観音寺観音、其余二体は今堂宇廃す。
此寺当時は地蔵堂にて専称庵と号せしを、宝永2年村民四郎左衛門と云者、祐天僧正を帰依し当庵を興隆せんことを願ひしに、祐天其志を感し遂に一寺となし、山号等を命して伝通院末となせり。
故に祐天を開基となす。其頃の住僧を正参順応といへり、清光と行基年代齟齬せしことは既に西福寺の条に弁せり。本堂に祐天開眼の地蔵を置、又祐天の与えし百万遍の珠数を蔵す。其魁首の珠に祐天自ら弥陀の名号を刻す。(新編武蔵風土記稿より)
専称院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの寺院」