橘樹神社。日本武尊東征の折に入水した弟橘比売命の着物・冠が漂着した地、橘樹郡の郡名発祥の社、橘樹郡の総社
橘樹神社の概要
橘樹神社は、川崎市高津区子母口にある神社です。橘樹神社は、日本武尊東征の折に海が荒れ、弟橘比売命が入水して海神を鎮められた後、比売命の着物・冠が漂着した地に廟を建て、更に二柱を祭る社を建立、橘樹郡の郡名発祥の社で、橘樹郡の総社だったといいます。
社号 | 橘樹神社 |
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祭神 | 天照大神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 例祭日10月第一日曜日 |
住所 | 川崎市高津区子母口122 |
備考 | 旧村社 |
橘樹神社の由緒
橘樹神社は、日本武尊東征の折に海が荒れ、弟橘比売命が入水して海神を鎮められた後、比売命の着物・冠が漂着した地に廟を建て、更に二柱を祭る社を建立、橘樹郡の郡名発祥の社で、橘樹郡の総社だったといいます。
新編武蔵風土記稿による橘樹神社の由緒
(子母口村)立花社
村の西に寄てあり、祭神は日本武尊橘姫の二神なり、日本武尊は束帯にて劔を杖つき御首に、鉢巻をなしたまへる姿なり、長一尺三四寸橘姫も装束にて瓔珞の下りたる女冠をめされ、兩手に鏡をささげたまふ形なり、むかしは玉なりしを今は鏡にかへしと云、尤古き像にはあらざるべし、社は小宮づくりにて覆屋あり、拝殿三間に六間半南向前に鳥居たてり、柱間八尺、土人の説に此立花の社あるを以て郡の名起れりといへり、されどまさしく證據とすべきものなければをぼつかなし、ただし立花をもて唱ふれば古き宮なることは論なし、永徳四年二月二十六日神田二段を附し事前に載る文書に見ゆ、もし中古郡の名によりて祭初めたらんにも古きことしるべし、例祭九月九日なり、村内蓮乗院の持なり。
末社稲荷社。社の右の傍にあり。
辨天社。左の方なり。(新編武蔵風土記稿より)
神奈川県神社誌による橘樹神社の由緒
社伝によると倭建命東征の折海が荒れ、弟橘比売命が入水して海神を鎮められた。その後比売命の着物、冠が漂着した地に廟を建て、更に二柱を祭る社が建立された。神社の東方百メートル程の丘に廟があったと伝えられる。橘樹郡の郡名は、当神社の社名よりつけられたといわれ、郡中の総社として多くの崇敬者を集めた。社殿は元禄元年再建、嘉永四年には郡中一二四ヶ村に寄付を募り再建、昭和四十二年社殿を改修、銅板葺とした。(神奈川県神社誌より)
橘樹神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 神奈川県神社誌