島穴神社|市原市島野の神社

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島穴神社|延喜式神名帳所載の式内社

島穴神社の概要

島穴神社は、市原市島野にある神社です。島穴神社は、景行天皇40年(114)に日本武尊が走水から上総へ航行中に暴風に遭遇、弟橘姫命が入水して暴風を鎮めたことから、弟橘姫命の遺志により当地に志那都比古尊を祀り創建したといいます。陽成天皇8年(884)には正五位上勲五等に神階を授けられ、延喜式神名帳にも海上郡二座(並小)島穴神社と記載されている古社です。その後も将門降伏の勅願や源頼朝からの神田寄附など崇敬を受け、明治4年郷社に、明治12年には県社に列格していました。

島穴神社
島穴神社の概要
社号 島穴神社
祭神 志那都比古尊、日本武尊、倭比売尊
相殿 -
境内社 疱瘡、大六天、八雲、子安・愛宕・淡嶋、浅間、道祖神社、古川神社、日宮神社、十七夜神社
例祭日 夏季7月25日、秋季10月20日
住所 市原市島野1129・1130
備考 旧県社、延喜式神名帳小社



島穴神社の由緒

島穴神社は、景行天皇40年(114)に日本武尊が走水から上総へ航行中に暴風に遭遇、弟橘姫命が入水して暴風を鎮めたことから、弟橘姫命の遺志により当地に志那都比古尊を祀り創建したといいます。陽成天皇8年(884)には正五位上勲五等に神階を授けられ、延喜式神名帳にも海上郡二座(並小)島穴神社と記載されている古社です。その後も将門降伏の勅願や源頼朝からの神田寄附など崇敬を受け、明治4年郷社に、明治12年には県社に列格していました。

境内掲示による島穴神社の由緒

当宮は「延喜式」所載の上総五社の内の一社であり、古くからこの地方の格式ある名社として崇められてまいりました。
今からおよそ千八百年あまり前の景行天皇の四十年(西暦一一四年)日本武尊が東征のみぎり相模国走水より上総国へ航行中にわかに暴風に遇われあやうく船が覆りそうになった時同乗されていた、妃君の弟橘姫命が大和の大和国の風鎮の神龍田大社を遥かに拝み、安全に上総国まで航行させてくれるならば必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽しますと祈りながら海中に身を投ぜられました。するとたちまち暴風は止み、ぶじ上総国へ着くことができたので日本武尊は弟橘姫命のご遺志の通りこの地に志那都比古尊を祭る当宮を創祀されたのであります。のち景行天皇が当地へ行幸(一二七年)の折日本武尊、倭比売尊を合祀されました。
また陽成天皇八年(八八四)には朝廷より正五位上の神階を授けられ、明治十二年(一八七九)には千葉県の県社に列格されたのであります。(境内掲示より)

「市原市史」による島穴神社の由緒

島穴神社(島野) 式内社、元慶元年(八七七)五月正五位下となる。明治十二年(一八七九)県社となる。治承四年(一一八〇)八月源頼朝神田三六石を寄進する。天正中北条氏に侵略され村や社を焼き、寄進状も灰となり神田を失い、徳川氏より朱印地を与えられなかった。神社の北三〇〇メートルの水田の中に盛があって約九〇平方メートルの広さでもとの社の址といわれる。深い穴があって清風が吹き出していたことがあってそれが島穴の名の起こりと伝えられている。姉埼神社と祭日を同じくする。島穴(島名)は古代の駅路であった。社号の扁額は松平定信の筆になる。手水石は延享二年(一七四五)六月の造立、大狛犬は文政八年(一八二五)の造立である。(「市原市史」より)

「市原郡誌」による島穴神社の由緒

東海村大字島野字島穴にあり木更津線五井・姉ヶ崎間殆ど中央左側老樹蒼々たるを見る之なり、人皇十二代景行天皇の四十年十一月皇子日本武尊東征の時御親祭せられし所、姉ヶ埼神社鎮座科那戸邊命の良人志那津比古尊を祭る、風神にして上総五社の一なり、同五十三年天皇御東幸の時現今の相殿日本武尊倭比賣尊を合祀す(三代實録)元慶元年五月十七日(皇紀一五三七年にして陽成天皇御即位の年)丁巳授上総國從五位上勲五等島穴神正五位下類聚國史之と同じく載す(延喜式神名帳)上総國海上郡二座(並小)島穴神社・姉ヶ埼神社と載す又元慶元年五月大旱の時乞雨の勅願あり天慶三年二月(皇紀一六〇〇年)には、将門降伏の勅願在らせられきとぞ、治承四年八月(編者註皇紀一八四〇年にして以仁王平氏と戰て宇治に戰死し賴朝鎌倉に入りし年なり)源賴朝神田を寄附す(高三十六石神官社入十餘戸)天正(皇紀二二三三-二五五一年)年間北條氏の兵火に罹り神寶社記其の他蕩盡す、左少将源定信上総國富津を固め信向ありて文政六年(編者註皇紀二四八三年にして獨乙人シーボルト氏長崎に来り醫方を講じたる年なり)十一月自筆の扁額を奉納す、爾後年々幣帛を奉らる又神殿修覆料として屡米若干を領主大国忠愛天保十三年(皇紀二五〇二年)壬寅より慶應年間まで年々寄進す嘉永元年(皇紀二五〇八年)正三位千種有功卿及堀川康親卿奉る歌に
四方の海仰げばさそな紅葉にも花にも風はさわらさりけり(千種)
太しくもたてゝ護れる島穴のふた柱こそ世々におこかね(康親)
明治四年辛未十一月二十二日島野外十一ヶ村郷社に定められ、明治十二年十月二十八日縣社に列せらる、・・・(「市原郡誌」より)

「千葉県神社名鑑」による島穴神社の由緒

神階正五位上勲五等。当宮は『延喜式神名帳』所載の上総五社の内の一社。景行天皇四〇年(一一四)日本武尊が東征の折、相模国走水より上総へ航行中、にわかに暴風に遭われ、危く船が覆りそうになった時、同乗されていた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮神龍田の神を遁かに拝み、海中に身を投ぜられると暴風は止み、一行は無事当地へ着くことができた。尊は妃のご祈誓に従いこの地に風鎮の神志那都比古尊を創祀された。のち景行天皇が当地へ行幸(一二七)の折日本武尊、倭比売尊を合祀された。また陽成天皇八年(八八四)には朝廷より正五位上の神階を授けられ、明治一二年(一八七九)に県社に列格、今日に至る。松平定信侯奉納の扁額・社紋幕等が奉護されている。(「千葉県神社名鑑」より)


島穴神社の周辺図


参考資料

  • 「千葉県神社名鑑」
  • 「市原市史」
  • 「市原郡誌」