走水神社。横須賀走水の神社、走水発祥の地

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走水神社。日本武尊が上総へ渡る際に創祀、弟橘媛命が海に身を投じて波を鎮めた走水発祥の地

走水神社の概要

走水神社は、横須賀走水にある神社です。走水神社は、日本武尊が東国征伐に際して当地から上総へ渡る際に拝領した冠を石櫃に納めて創祀したといいます。その渡海の時、荒波を鎮めるためにつき従ってきた弟橘媛命が海に身を投じて波を鎮めて、日本武尊は無事海を渡り、御座船の速なるを、水走ると云われたことから、走水の地名が起ったといいます。明治六年郷社に列格、明治四十一年神饌幣帛料共進神社に指定さています。

走水神社
走水神社の概要
社号 走水神社
祭神 日本武命、弟橘媛命
相殿 素戔嗚尊
境内社 稲荷社
祭日 10月15日
住所 横須賀走水2-12-5
備考 旧郷社



走水神社の由緒

走水神社は、日本武尊が東国征伐に際して当地から上総へ渡る際に拝領した冠を石櫃に納めて創祀したといいます。その渡海の時、荒波を鎮めるためにつき従ってきた弟橘媛命が海に身を投じて波を鎮めて、日本武尊は無事海を渡り、御座船の速なるを、水走ると云われたことから、走水の地名が起ったといいます。明治六年郷社に列格、明治四十一年神饌幣帛料共進神社に指定さています。

神奈川県神社誌による走水神社の由緒

日本武尊は景行天皇の皇子で、弟橘媛命は穂積氏忍山宿祢の女で日本武尊の御后である。
景行天皇即位四十年(一一一)東国の蝦夷が叛いたので、天皇は日本武尊に鎮定を命じた。日本武尊は勅命を奉じて東国征討の軍を起こされ、東海に下り、走水の地に数日滞在ののち、上総の国へ軍船にて一気に渡らんと船出されたが、海は荒れ狂い、御座船が覆没せんとの危機に、日本武尊につき従ってこられた御后・弟橘媛命が、このように海が荒れるのは、海の神の荒ぶる心のなさること故、私が海に入り怒りを鎮めるほどに、尊はその任を完遂して欲しいと告げ、「さねさし、相模の小野に燃ゆる火の、火中に立ちて、問ひし君はも」と辞詠を残し、海上に、菅、皮、絁等を八重に敷き、その上に身を置き入水されたところ、忽ち海はなぎ、波はしずまり、日本武尊は恙がなく上総国に渡られ、賊を討ち平らげられた。尊が渡られるとき、御座船の速なるを、水走ると云われ、走水の地名とされている。日本武尊が船出をするとき、村民に冠を下し賜えた。村人等は、その冠を石櫃に納め、上社を設け、尊をお祀りしたのが走水神社の創立と云われる。
弟橘媛命は、走水御所ヶ崎に橘神社として祀られていたが、明治十八年走水神社境内に移し、明治四十二年走水神社に合祀された。
明治六年郷社に列せられ、明治四十一年神饌幣帛料共進神社に指定された。
明治四十三年境内に弟橘媛命の貞節を讃え、婦徳を後世に伝えんと竹田宮昌子内親王の染筆により、弟橘媛命の辞詠の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典等により建立された。(神奈川県神社誌より)

新編相模国風土記稿による走水神社の由緒

(走水村)
走水権現社
山丘の上にあり、村の鎮守なり、祭神日本武尊、神躰は神秘なりとて石櫃に収め、本社の土中にあり、今社壇には甲冑を帶し劔を持、船に乗たる木像を安ず(長一尺四寸五分)又十王と唱る像を筥中に秘置り
享保中 當社回録に罹りし時、十軀の内五六軀殘りて餘は灰燼となれりと云ふ、按ずるに、こは尊の從者などを祀りしものならん、偶十體あるを以て十王と唱へしにや、按ずるに【相模國風土記殘本】に興居陵日本武尊、平東夷之時、官軍至此逢疫而死、故葬茲、准寵臣之葬、總五百人と見ゆ、當社若くは其遺跡なるも知るべからず、
大泉寺持下同じ、
末社。稲荷
供所。三宮院の號あり、不動を置く、(新編相模国風土記稿より)

境内掲示による走水神社の由緒

走水の地名は、すでに古事記(七一二年)や日本書紀(七二〇年)の中に表れています。大和朝廷時代には、上総(千葉県)を経て東北地方に渡る最も便利な道として、この地方に古東海道が通じておりました。
走水神社の祭神は、日本武尊とその后弟橘媛命の二柱です。神社の創建された年代については、享保年間の火災で、神社の記録や社宝が焼失してしまったのでわかりません。伝説では、景行天皇の即位四十年(一一〇年)、東夷征討の命を受けた日本武尊が、この走水から上総へ渡られるにあたり、村民に「冠」を賜りましたので、冠を石櫃に納めて、その上に社殿を建て、武尊を祭ったことに始まると伝えています。日本武尊が渡海の際、海上が荒れ、いまにも舟が沈みそうになりました。海神の怒りであると考えられた弟橘媛命は、
さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
の歌を残し、日本武尊に代わって海に身を投じ、風波を鎮めました。弟橘媛命は、もと旗山崎に橘神社として祭られていましたが、その地が軍用地に買収されたため、明治四二年、この神社に祭られました。
明治四三年六月、弟橘媛命の歌碑が、東郷平八郎、乃木希典など七名士により、社殿の裏手に建てられました。
社殿の階段下の右側にある「舵の碑」は、弟橘媛命の崇高な行いにあやかり、航海の安全を願って国際婦人年(昭和五十年)を機に、また、左側にある「包丁塚」は、走水の住人大伴黒主が、日本武尊に料理を献じて喜ばれたとの古事により、包丁への感謝と鳥獣魚介類の霊を慰めるため、昭和四十八年に建てられたものです。(境内掲示より)


走水神社の周辺図


参考資料

  • 神奈川県神社誌
  • 新編相模国風土記稿

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