吾嬬神社|海に身を投じた弟橘媛の召物を納め吾嬬大権現を創建
吾嬬神社の概要
吾嬬神社は、墨田区立花にある神社です。吾嬬神社は、日本武尊東征の際に相模から上総へ渡ろうとして暴風に遭い、弟橘媛が身を海に投じて暴風を鎮めたことから、日本武尊は当時浮き洲であった当地に上陸できたものの、弟橘媛は行方知れずとなり、弟橘媛の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと伝えられます。後、弟橘媛を慕って正治2年(1200)宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家が吾妻権現として社殿を造営したといいます。当地名立花は、この弟橘(立花)媛の言い伝えにより命名されたといいます。
社号 | 吾嬬神社 |
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祭神 | 弟橘姫命 |
相殿 | 日本武命 |
境内社 | 福神稲荷神社 |
祭日 | 稲荷福神祭2月、吾嬬神社例祭8月 |
住所 | 墨田区立花1-1-15 |
備考 | - |
吾嬬神社の由緒
吾嬬神社は、日本武尊東征の際に相模から上総へ渡ろうとして暴風に遭い、弟橘媛が身を海に投じて暴風を鎮めたことから、日本武尊は当時浮き洲であった当地に上陸できたものの、弟橘媛は行方知れずとなり、弟橘媛の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと伝えられます。後、弟橘媛を慕って正治2年(1200)宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家が吾妻権現として社殿を造営したといいます。
新編武蔵風土記稿による吾嬬神社の由緒
吾妻権現社
吾妻森と号す。村内寶蓮寺の持。社傳に云、当社は人皇十三代景行天皇の皇子日本武尊の妾橘姫命の旧蹟なり。此姫は物部連等祖大水口宿禰の孫、東夷謀叛しければ日本武尊を大将軍とし、吉備の武彦大伴武日連等を追て是を討しむ。同8月尊相模国より上総国へ行まさんとするに、海中暴風起りて御船を漂蕩して渡すべからず。因て姫尊に啓て云、是必海神の祟りならん。我身を捨て御身にかはり奉らんとて浪間に飛入り逆まく水の泡と消たまひぬ。既にして風浪静まりかれば御船恙なく着岸あり。故に其所の海上を走水と云。それより尊夷を平げ武蔵上野を巡り、西の方碓日の坂を上り東南を望み、姫をしたひて嗚呼吾妻こひしと宣ひしより、東国の惣名とは成ぬ。姫入水の砌御身に添給ひしゆつり葉の鏡海中に沈み入しを、尊白狐神に命じて取得て、後穂積家に傳ふ。人皇83代後土御門院御宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家、姫の御跡をしたひ奉り、正治2年庚申8月15日彼ゆつり葉の鏡を以て神体とし、行基菩薩の十一面観音を本地とし、此吾妻森に旧蹟を写し、則吾妻権現と崇め祭れり。此森昔は浮洲森といへり。其後承久の頃北条泰時関東管領の時、鈴木隼人・遠山采女・井出大学など領主太田某へ請て社頭を造営云々と載たり。按に当所旧蹟のこと他の所見なき処なれば、もとより造ならされと、海植え守護の為として勧請せしは宣なり。又承久の頃鈴木遠山井出等が太田へ請て再造すと云も、未だ他に傳へざる説なり。殊に太田某に請しなと云は持実入道道灌などに混したる傳にや、又江戸砂子には、天文の頃遠山鈴木井出三氏社を造営すと見えたり。
神体唐ノ頭一。北条泰時寄附せし獅子の頭骨なりと云。
驛路ノ鈴一。古色の物なり図上に載す、長9寸。
古書一幅。日本武尊東征の日船中にて薙風に逢たまひし時の図なり。頼朝筆といひ傳ふ。
末社稲荷。真羅稲荷と号す。則本社縁起にのせる白狐神なり。金比羅を合祀す。
神木楠。傍に藤原傳古か撰へる碑あり。(中略)(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による吾嬬神社の由緒
抑当社御神木楠は昔時日本武命東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はんと、御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て、御船危ふかしりて御后橘姫命、海神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽、海上おだやかに成りぬれ共、御船を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの嶋、忽然と現到る。御船をば浮洲に着けさせ、嶋にあがらせ給ひて、あ~吾妻戀しと宣ひしに、俄に東風吹来りて橘姫命の御召物、海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば、尊、大きに喜ばせ給ひ、橘姫命の御召物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離を結び御廟となし此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上船中の守護神たり。尊神ここに食し給ひし楠の御箸を以て、末代天下太平ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて、御手自ら御廟の東の方にささせ給ひしに、此御箸忽ち根枝を生じし処、葉茂り相生の男木女木となれり。神代より今に至りて梢えの色変わらぬ萬代おさめし事、宛然神業なり。其後民家の人々疫にあたり死する者多かりしに、時の宮僧此御神木の葉を与えしに、病苦を払ひ平癒せしより、諸人挙って尊び敬ひぬ。今こそ此御神木楠の葉を以って護符となして裁服するに、如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし。凡二千有余年の星霜おし移ると云へ共、神徳の変らざる事を伝ふべし。共猶諸人の助けとならんと、略してしるす也。(境内掲示より)
すみだの史跡散歩による吾嬬神社の由緒
この地は江戸時代のころ「吾嬬の森」、また「浮州の森」と呼ばれ、こんもりと茂った微高地で、その中に祠があり、後「吾嬬の社」と呼ばれたとも言われています。この微高地は古代の古墳ではないかという説もあります。
吾嬬神社の祭神弟橘媛命を主神とし、相殿に日本武尊を祀っています。当社の縁起については諸説がありますが、「縁起」の碑によりますと、昔、日本武尊が東征の折、相模国から上総国へ渡ろうとして海上に出た時、にわかに暴風が起こり、乗船も危うくなったのを弟橘媛命が海神の心を鎮めるために海中に身を投じると、海上が穏やかになって船は無事を得、尊は上陸されて「吾妻恋し」と悲しんだという。
のち、命の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと言われています。
降って、正治元年(1199)に北条泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守に命じて、神領として300貫を寄進し社殿を造営しています。さらに、嘉元元年(1303)に鎌倉から真言宗の宝蓮寺を移して別当寺としています。これらによっても、当社の創建は相当古いものと考えられます。
なお、奥宮と称される本殿の裏手には狛犬が奉納されています。樹木の下にあって磨滅は少なく、安永2年(1773)の銘を持ち、築地小田原町(築地6・7丁目)、本船町地引河岸(日本橋本町)の関係者の奉納であることがわかります。かつてはこの森が海上からの好目標であったこともうかがわせます。(すみだの史跡散歩より)
境内社福神稲荷神社について
福神稲荷神社は、吾嬬神社近く江東区側に鎮座していましたが、1922年に当地へ遷座したといいます。
福神稲荷神社
御祭神:宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命
当社は元亀戸四丁目地蔵川岸のほとりに鎮座していましたが(1922)吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました。その後第二次世界大戦の災禍をうけ周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張りました。吾嬬神社復興事業(1946)執行の折社殿を現在の場所へ再び御遷座申し上げ此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居ります。尚この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であります。(境内掲示より)
吾嬬神社所蔵の文化財
- 安永2年銘狛犬(墨田区登録文化財)
- 吾嬬森碑
- 連理の樟(墨田区登録文化財)
- 紀真顔高麗剣の歌碑
- 文化十四年銘水鉢
- 源延平「皇国は」の歌碑
- 天保9年銘鳥居
- 力石群(墨田区登録文化財)
吾嬬森碑
この碑は、明和3年(1766)に儒学者山県大弐により建立されたと伝わります。「吾嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森のひとつとして「葛西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれています。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から二つの幹を見せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。左の絵は広重の作品「江戸名所道化盡 吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。
明治43年(1910)の大水や関東大震災、東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根ざした伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。(墨田区教育委員会掲示より)