仏生山遍照院|和銅元年の開創、武蔵国三十三ヶ所、新四国四箇領八十八ヵ所
遍照院の概要
真言宗豊山派の遍照院は、仏生山和銅寺と号します。和銅元年の開創と言われる古刹ですが、戦火や洪水などで多くの寺宝を失ったといいます。武蔵国三十三ヶ所霊場15番、西新井組中川通四箇領八十八箇所35番です。
山号 | 仏生山 |
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院号 | 遍照院 |
寺号 | 和銅寺 |
住所 | 葛飾区水元5-5-33 |
本尊 | 不動明王・両童子像 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 武蔵国三十三ヶ所霊場15番、幼稚園併設 |
遍照院の縁起
遍照院は、和銅元年(708)または和銅3年(710)に仏生山和銅寺として開創したと伝えられます。戦国時代の国府台合戦によ伽藍を消失、元亀2年(1572)に至って、遍照房教吽が金光山最勝寺遍照院として中興、享保18年(1733)仏生山和銅寺遍照院と改称しました。
葛飾区寺院調査報告による遍照院の縁起
和銅元年(708)または同3年の開創と伝えられる。昭和の初年、旧寺域から嘉元2-天文6年(1304-1537)の板碑が多数発掘された。天文7年(1538)10月、国府台合戦のとき、たまたま当寺で法会の幟を連ねたところ(一説には、当寺の小僧が洗った下帯を竹竿に結び付けて合戦の真似をしたため)、国府台の小田原北条氏の軍勢がこれを里見氏の落武者と誤認し、風上から火を放って伽藍を焼き、一時廃寺同様となった。元亀2年(1572)に至って、遍照房教吽は衆縁を募って再興し、金光山最勝寺遍照院と改称したが、享保18年(1733)旧称に復した。宝永元年(1704)8月と延享元年(1744)2月の洪水および明治15年1月の火災により、多くの寺宝・記録を失った。次に当寺に関する資料若干を掲げる。
元文4年「正福寺惣門末起立録」
猿箇俣村 仏生山 和銅寺 遍照院
1 本尊 不動明王
1 開基 和銅元年 開僧 不分明 元文4年迄 凡1033年
1 中興 元亀2年 教吽 元文4年迄 凡169年
1 香取宮社地 2畝歩 御見捨
1 元香取宮社地 4歩 御見捨
1 氷川宮社地 3歩 右同断
1 浅間社地 2畝歩 右同断
1 金山権現・東権現・浅間宮社地 5反9畝11歩 御見捨
1 釈迦堂 2畝歩 右同断
1 弥陀堂 2畝歩 右同断
1 境内 1反5畝歩 右同断
1 寺附 1町5反9畝28歩 御年貢 内8畝11歩 中川御普請之節潰
1 代官所 伊那半左衛門殿
「新編武蔵風土記稿」
遍照院 新義真言宗上小松村正福寺門徒。仏生山和銅寺ト号ス。伝ヘ云、此寺ハ和銅三年ノ草創ニテ、仏生山ト号シ、寺号ハ時ノ年号ヲ用イシ大寺ナリシカ、天文七年、総州国府台ノ城陥シ後、当寺仏会ノコトアリテ法幡ヲ立連ネシヲ、寄手遥ニ望見テ落ち武者ココニ潜居セリト思ヒ、風上ヨリ火ヲ掛シカハ、堂宇一時ニ灰燼トナリ、廃寺ノ如クナリシヲ、後年遍照房ト云僧、カノ旧迹ヲ再建シテ遍照院ト改メ、山号・寺号ハ古称ニ従フト云。本尊不動ヲ安ス。観音堂
釈迦堂 前院ノ持。元ハ和銅寺境内ノモノト云。
「四神地名録」
猿ヶ俣村 此地に仏生山和銅寺といふ新義の真言宗有。和銅年中の建立にして、天文の頃ハ伽藍地なりしに、国府台落城の節、此寺の小僧、下帯を川に出て洗い、長き竹のさきニぶらくり、源氏の白旗なしと称し、戯に合戦の真似をして寺中にさし置しかハ、国府台の寄手、遠くこの白旗を見て、落武者此寺に屯し、再び旗をあけしにや、もらすな逃すなと、大勢集り、風上より火をかけし故に、堂舎残りなく焼亡し、夫より衰微して、今のことしと物語き。左もありし事にや。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)
遍照院所蔵の文化財
- 紙本墨書 胎蔵界私・金剛界私糸玉抄 2冊(葛飾区指定文化財)
- 遍照院異形板碑(葛飾区指定文化財)
遍照院異形板碑
板碑とは板状をした石の供養塔のことで、製作年代はほぼ中世に限られます。 この板碑は、かつては閘門橋付近の堤上、「勢至のマキ」と呼ばれる大木の下にあり、のちに当地に移転されてきたものです。 高さは136cm、上部には蓮座に乗った阿弥陀種子が大きく刻まれています。しかし、その他の銘文は破損・摩滅のため読むことができません。形態上の特徴としては、上部の面が高く残されている点があげられ、当地域では珍しいものです。(葛飾区教育委員会)
遍照院の周辺図