萬輝山陽泉寺|大御番勤務・伴五兵衛の祖先が開基
萬輝山陽泉寺の概要
曹洞宗寺院の陽泉寺は、萬輝山と号します。陽泉寺は、江戸幕府大御番勤務の伴五兵衛の祖先陽泉寺殿心翁道安居士(伴右兵衛、元和8年1622年卒)が開基となり、雲高秀呑和尚(寛文5年1665年寂)を勧請開山として明暦3年(1657)に創建したといいます。(現在活動していませんが)西方三十三所観音6番です。
山号 | 萬輝山 |
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院号 | - |
寺号 | 陽泉寺 |
住所 | 港区赤坂1-11-9 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
萬輝山陽泉寺の縁起
陽泉寺は、江戸幕府大御番勤務の伴五兵衛の祖先陽泉寺殿心翁道安居士(伴右兵衛、元和8年1622年卒)が開基となり、雲高秀呑和尚(寛文5年1665年寂)を勧請開山として明暦3年(1657)に創建したといいます。
赤坂區史による萬輝山陽泉寺の縁起
曹洞宗陽泉寺(山號萬輝山、牛込保善寺末)靈南坂町四番地
續府内備考には、起立年代不詳とあるも、區役所保存の社寺明細帳に於ける當寺よりの書上に據れば、明暦三丙申三月創立となつてゐる。
開基は幕士大御番勤仕伴五兵衛(文政戊子年の頃)の祖先陽泉寺殿心翁道安居士俗稱伴右兵衛(元和八年八月二十五日卒)で、勧請開山は雲高秀呑和尚(寛文五年七月十五日寂)である。
門前町家は西側南北に表間十二間裏幅同斷、東西に奥行七間、但し片側町家で、陽泉寺澄泉寺兩寺之間に介在するが故に里俗之をねぶと町と稱へた。
本堂の前に大國隆正の墓がある。隆正は石州津和野藩士にして、平田篤胤に従つて古道學を修めた國學者、尊皇家であつて、明治維新後内國事務局権判事、同租税掛、神祇事務局権判事、宣教師御用掛等に歴任し、銘字四年八月歿、年八十一、贈従四位。著書は神典、國語に關する研究並に時事献策等百餘種に及んでゐる。
新撰東京名所圖會に記載されてゐる二水の句碑(散る花にしはうつりぬ夕心、安政五戊午暮春現在庵書すと刻せるもの)は、大正十二年の震災に亡びて、今はない。(赤坂區史より)
萬輝山陽泉寺の周辺図
参考資料
- 「赤坂區史」