深廣寺|港区六本木にある浄土宗寺院

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高明山深廣寺|徳川秀忠公の御臺所祟源院殿の火葬地、西方三十三所観音

深廣寺の概要

浄土宗寺院の深廣寺は、高明山常住院と号します。深廣寺は、文禄元年(1594)西久保に創建、徳川秀忠公の御臺所祟源院殿を寛永3年(1626)当地で火葬し菩提を弔っていたことから、当地を拝領して当地へ移転、稱蓮社専譽善宿和尚(正保4年1647年寂)が開山したといいます。(現在活動していませんが)西方三十三所観音11番です。

深廣寺
深廣寺の概要
山号 高明山
院号 常住院
寺号 深廣寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 港区六本木7-14-6
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



深廣寺の縁起

深廣寺は、文禄元年(1594)西久保に創建、徳川秀忠公の御臺所祟源院殿を寛永3年(1626)当地で火葬し菩提を弔っていたことから、当地を拝領して当地へ移転、稱蓮社専譽善宿和尚(正保4年1647年寂)が開山したといいます。

「麻布區史」による深廣寺の縁起

高明山松傳院深廣寺 六本木町五九
文禄元年西久保城山に創建され、延寶六年此の地に轉来した。開山稱蓮社専譽善宿和尚(正保四年十一月二十六日寂)境内の観音堂は西方十一番の札所である。
山門の扁額「高明山」は佐藤一斎の筆になり、面に「嘉永己酉八月朔江都一斎斎藤坦書、時齢七十八」と刻されてゐる。
當寺には佐藤一斎をはじめ多數の名墓がある。先づ庭前には一斎墓と竝んで夫人「梅閨孺人中根氏」の墓がありその前に河田迪斎墓がある。迪斎は讃岐の人通稱八之助、名は興、字は猶興屏淑又は藻海と號し一斎の女婿となつた儒者である。安政二年十二月十七日年五十四を以て歿した。
墓地には左の人々が葬られている。
佐藤周軒、一斎の曾祖、美濃岩村候の老職で儒者であつた。名は廣義、勘十と稱し晩年塵也と號した。寛保元年七月十七日没、年七十七、法名光山院義譽玄了塵也居士。
若山勿堂、阿波の人、名は極、通称壮吉、用丞と號し一斎の門に入り文久三年昌平黌の儒員となつた。慶應三年歿年六十六。門下より勝安房、板垣退助、土方久元等が輩出した。
佐藤文永、一斎の父、岩村侯の儒臣、名は信由、字は豊卿又は子遷、通稱勘十。文化十一年七月二十七日歿、年八十(一書七月二十一日年八十七とあり)。
尚、寺地は寛永三年十月十八日、秀忠夫人浅井氏(祟源院殿)を火葬に附した趾であつて、その法事勤行の功に對して賜はつたものである。此の時従事した光専寺正信寺教善寺も此の跡地の一部を夫々給せられた。火葬の灰塚と稱するものがあり、碑が立つてゐたが、寶暦六年十一月二十三日の火災に遭つた爲め、現在は僅かに缺餘の石塊を遺すのみである。(「麻布區史」より)

東京名所図会による深廣寺の縁起

深廣寺
深廣寺は。六本木町五十九番地に在り。表門は二階造りにして。諸佛を安置しあり。一斎先生の書とし高明山の扁額を掲ぐ。其の落款に嘉永乙酉八月朔都一斎藤坦書時齢七十八と題せり。門を入りて左に西方第十一番の靈所観音堂あり。毎月七日、十七日、廿七日の縁日には。参詣者多く。露肆を陳する商賣集りて。甚だ賑ふ。墓門には倶會一處と書せし小額を掛く。前龍澤山僧の揮毫に係る。一斎先生の墓は其の傍に在りて。別に籬を環らし。一區廓を為せり。佐藤家歴代の墓は。墓地の奥に列せり。又當寺には先生の畫像及び先生の詩を書せし屏風一双あり。住職の居室には。先生の女竹露女史(名は縫)の畫梅を掲く。現住職は堀井貞雅といひ。人の請に應じ。方位、家相、人相、墨色の鑑定を為す。
當寺は寛永三年九月十八日。征夷大将軍徳川秀忠公の御臺所祟源院殿を火葬したる地にして。灰塚の碑ありしが。寶暦六年十一月廿三日の火災に罹り。今は其のしるしのみを存せり。
當寺は。浄土宗にて。増上寺末。開山は専譽上人にて。光専寺(遍照山)教善寺(長慶山)正信寺(源廣山)と同じく。寛永六年の建設なり。明治九年五月四ヶ寺より東京府知事に録上せし文書の一節を左に記して。以て其の由来を明らかにすべし。
四ヶ寺境内元受領地。
一深廣寺起立住職栗原善宿寛永六己巳年十一月七日
光専寺起立住職光龍寛永六己巳年十一月七日
正信寺起立住職順永寛永六己巳年十一月七日
教善寺起立住職向坂善作寛永六己巳年十一月七日
原拙寺共原同之儀は、徳川二代将軍台徳院殿之室浅井家嫡女祟源院殿、寛永三年丙寅九月十五日佗界、麻布龍土村六本木現今四千二百八十一坪地所之内、祟源院殿火葬被為行候、然る處四名の僧徒葬禮を始め、一周歳幷三周歳等に至る迄、法務役相勤、功労に依て増上寺十四代乗譽了的よりも言上、御懇の命令を蒙り、六寛永六己巳年十一月七日四ヶ寺へ右四千二百八十一坪拝領、時の奉行日下部大隅、荘田小左衛門、中澤主税介三人御検査、別紙絵図面の通四ヶ寺へ御分與被仰付、今に祟源院殿灰塚深廣寺境内に有之事確實也、依之芝原四千二百八十一坪の處、寛永六己巳年十一月七日より四名の僧徒自力を以て拓開、堂宇建営、爾来漸々と各寺の境内創立仕候、然る處前條之通り芝原地にて、近邊人家遠隔に付、行路の庶人難渋且つ府下光榮を祈り、萬分の一にも不足儀には候得共、旁以て四ヶ寺門前左右へ為助成と家作、四名の住持微力にて設立仕度旨、寛永年中寺社奉行所へ出願に及び、御聞済の上、延寶六年迄家作奥行三間の町並に相届、漸々に相設け、家作戸數四ヶ寺門前にて、三十軒餘取建、御検分の上相定候
一寛文八戊申年二月四日、四ツ谷より出火、寺内幷門前町屋悉皆類焼仕候處、道幅手狭に付、境内地四ヶ寺表通り二間に尺五寸幅、御用地に被仰出候條、寺社奉行加賀爪甲斐守より被仰渡候。
一同年三月九日増上寺廿五代頓譽智哲より、寺社奉行所へ口上の趣、今度麻布龍土村六本木四ヶ寺類焼後、道幅御用地に相成候段、御尤の御事に奉存候、然る上は四ヶ寺の内深廣寺境内祟源院殿灰塚御場所に付、不浄に相成様可被仰渡の旨言上有之趣、御老中へ寺社奉行衆より御披露依之同三月十一日久世大和守殿深廣寺屋敷へ被相越、祟源院殿灰塚拝禮、此時四ヶ寺の住持被召出、御葬禮のしだい被相尋候に付、台徳院殿上意の趣申上候、地割奉行北見五郎左衛門、城野半左衛門、本郷荘三郎なり、此時閣老酒井雅楽頭殿、阿部豊後守殿、稲葉美濃守殿、久世大和守殿、板倉内膳正殿、土屋但馬守殿、寺社奉行加賀爪美濃守、小笠原山城守殿なり、御用済の段、同十四日四ヶ寺共御禮相勤候。
延寶六戊午年正月十日、御用地代地として、廣深寺境内地不足分南日ヶ窪町に於て、七十八坪一合、光専寺分同所にて七十八坪一合、正信寺文北日ヶ窪町に於て、六十三坪、教善寺分同所にて百廿一坪、寺社奉行美濃部一學、山寺彌太夫、横山半左衛門三人出張、地割受領仕、同所へ四ヶ寺の住持自力にて先振に準し、奥行三間の家作取建、貸し渡し候、門前町屋の儀も同断、其内明地の分は借地申出候者も有之、頼みの者へ家作為致、奥行三間の準縄に取建、地代壹坪に付き、壹ヶ年永五十文位に取極め、其都度十ヶ年目證書相改め、約定取結び、地受人連署を以て借地證書各々取置仕候、下略(東京名所図会より)


深廣寺の周辺図


参考資料

  • 「麻布區史」
  • 東京名所図会