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大本山永平寺別院長谷寺|港区西麻布にある曹洞宗寺院

長谷寺の概要

曹洞宗寺院の長谷寺は、普陀山と号します。長谷寺は、山口重政が母(織田信秀臣岡部彦九郎正房女、法名長谷寺殿南室妙薫)のため、門庵宗關和尚を開山に迎え、龍雲院と号して赤坂溜池に天正12年(1584)創建、その後当地へ移転したといいます。駒込吉祥寺、三田功運寺(現萬昌院功運寺)と共に曹洞宗の檀林所だったといい、現在は大本山永平寺の東京別院となっています。当寺の観世音菩薩像は、養老年間に法道上人が楠材で造った三体の一つ(他は大和國初瀬・相模鎌倉)だといいます。江戸三十三観音霊場22番、東京三十三観音霊場6番です。

長谷寺
長谷寺の概要
山号 普陀山
院号 -
寺号 長谷寺
住所 港区西麻布2-21-34
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



長谷寺の縁起

長谷寺は、山口重政が母(織田信秀臣岡部彦九郎正房女、法名長谷寺殿南室妙薫)のため、門庵宗關和尚を開山に迎え、龍雲院と号して赤坂溜池に天正12年(1584)創建、その後当地へ移転したといいます。駒込吉祥寺、三田功運寺(現萬昌院功運寺)と共に曹洞宗の檀林所だったといい、現在は大本山永平寺の東京別院となっています。当寺の観世音菩薩像は、養老年間に法道上人が楠材で造った三体の一つ(他は大和國初瀬・相模鎌倉)だといいます。

「麻布區史」による長谷寺の縁起

普陀山長谷寺 笄町九九
下野間富田大中寺末であつたが昭和三年一月越前永平寺直末になった。駒込吉祥寺三田功運寺と共に江戸三檀林の一に數えられる。創建並に山口家との争に就ては通史に詳述した。寛文十二年六月江戸鋳物師宇多川善四郎藤原利重作るところの梵鐘の銘には「武州豊島郡澁谷庄高貝村補陀山長谷寺者門庵宗關和尚開闢之禅刹也」云々と見える。
本尊十一面瓶詰日は大和、鎌倉岡長谷寺視音と同木同作と侍へ、高さ二丈六尺の立像で東京最大のものである。叉、明王堂安置の夜叉明王石像は其の昔青山長者丸某家の掘井戸中より出現したものと云ひ、堂は安永二年九月の再建である。
昔は澁谷長者鶴見内蔵助秀治の納めた古佛像百四十一軀を安置した倉があつたが、今は亡失してしまつたた。又観音の御夢想に依る三枝カ葉の靈草と稱するものが、今もあるが、諸病に効験ありとて請ふものが多い。
寛永十年筑前の大守黒田直之が、重臣栗山大膳に讒せられ、その申開きの爲め出府して宿所を芝以北の大寺に乞うた時何れも後難を惧れて斷はつたが、ひとり當寺五世の東傳和尚だけは是を諾して宿院を提供し冤罪を解くに骨を折つた。
其の折、急造した書院は一夜書院と稱へ明治の半頃まであつた。又此の事件中屡〃大久保彦左衛門が来寺して馬を繋いた櫻を大久保の駒繋ぎ櫻と呼び今もその跡に老櫻がある。江戸以来の古刹とて名家の墓が多い。(「麻布區史」より)

東京名所図会による長谷寺の縁起

長谷寺
長谷寺は。麻布笄町百番地に在り。道路より西に入ること三町許。正面に黒門を構へ。普陀山と書せし大額を掲げ。門柱に東京吉祥講會教會所の標榜を掛く。當寺は曹洞派の禅窟にして。駒込の吉祥寺三田の功運寺と同じく檀林の一たり。
佛殿
門を入りて正面に在り。二重屋根素木造り開戸にして。前に鰐口を懸け。層屋の間に月舟の書せし圓通閣の大額を扁す。
西方第三十三番の札所にして。御詠歌と稱する者は左の如し。
めくり来てちかひそあふくふたらくの 山もめくみもふかきはせでら
本尊十一面観世音は。立像にして二丈六尺あり。東京の観世音中最大なる者なり。養老年間法道上人楠の良材を以て造りし三體中の一にて。餘は大和國初瀬と相模鎌倉に在り。
年號幷造像に就ては。諸説あれども。今姑く寺傳に従て記す。
殿前に露座の銅佛あり。殿内左右にも諸佛の像あれども一々に之を注せず。
本堂。
佛殿より更に奥の方に在り。昔は大伽藍にて甚だ盛んなりしが。今は其の三分の一に過ぎず。彼の黒田家騒動の際。主公難を當寺に避けし時造りし一夜書院と稱するものもありしが。今はなし。然れども他の寺院に比すれば。決して小宇にあらず。聞く慶應變亂の頃。檀信徒皆離散し。資財給せざりしを以て。堂宇随て大廃し。雨中傘を手にするにあらざれば入ること能はざりし程なりしが。前住具戒禅師(碑文下に見ゆ)辛苦経営して之を維持したり。現住は北越戒定師といふ。高等學林の卒業生にて少壮なるのみならず。将来営繕の方法も整ひしよしなれば。是より漸次繁榮に至るべし。
夜叉神堂。
門を入りて右の方に在り。前に石燈籠二基を配置す。堂廡に朝暮對此善神些事無不成就と題せし横額をかく。堂内の香火常に絶ることなく。奉納の夜叉の假面(俗にいふ鬼の面)甚だ多く。其のふるきものは傍らの箱に充満してあり。是れは世人夜叉神に祈願すれは。腫物に効験ありとて。先づ此處のふる面を持ち去り。平癒の上新らしきを添て供ふるが為めとぞ。一年に二回ほど焼棄るよしなれども。此の如く堆積すといふ。彼の假面は門番所にてぎ居れり。又現在の堂宇は安永二年九月の再建に係る。
夜叉神は。石の立像にて。むかし渋谷長者の古蹟たる井中より出現せしもののよし。
石水盤及石井
夜叉神堂の前西よりの處にあり。共に屋を架す。水盤の刻文は左の如し。(刻文省略)
鐘楼。
佛殿の北に在り。
征清戦死者の銅塔(省略)
具戒禅師の碑(省略)
古佛倉
今は廃絶してなし。江戸名所図會に云。仏佛倉本堂の右に在り。稀世の靈佛靈神の像を安して。庫中に充満せり。此地の住人鶴見内蔵助秀冶といふ人。當寺へ納る所にして。すべて百四十一體ありと云。世に渋谷長者といふは是なりとす。
小松原稲荷社。
是も今はなし。もと裏門の方に在りて。毎年九月廿一日祭事ありたり。意ふに神佛混淆禁止の際に撤去せしものならむ。
三枝九葉草(省略)
當寺の沿革
江戸名所図會に云。開山は門庵宗關和尚たり。昔は赤坂溜池の上にありて。龍雲院といひしを。天正二年甲申此地に移し本號をも改めしといへり。
武江戸圖説に。山口家傳云。當寺山口重政開基にて。屋鋪の内を分て菩提所となし。龍雲院と云。重政母公の為に起立する也。此母公は織田信秀臣岡部彦九郎正房女にて。寛永二乙丑三月廿五日九十二歳にして江戸に歿す。法號長谷寺殿南室妙薫と號す。其後故有て山口家の墳墓不残屋敷の内へ引取。長谷寺と境を隔ると也。
以上兩書に徴すれば。當寺は昔龍雲院と稱したるものと見ゆ。現住に其の由緒を照當せしに。記録完からざるよしにて。左の如く回答せられたり。
創立。天正十二申年五月元加賀守御屋敷を改築せしもののよし。
開祖。文庵闡明和尚野州下都賀郡富山村大中寺より移轉す。
當寺に蔵する元禄十五年の地圖を閲するに。奥行二百三十四間間口百二十二間。拝領地一萬八千四百四十六坪。内卵塔場千三百五十坪。境内一万九千三百十八坪とあり。以て其寺域の濶大なるを知るべし。今は僅かに其の一部分に過ぎず。不許葷酒入山門の標石は。二三丁を隔てて道路よりの入口に存せり。むかしは此邊に表門ありしならむ。彼の有名なる高野槇も今はなし。(東京名所図会より)


長谷寺の周辺図


参考資料
  • 「麻布區史」
  • 東京名所図会