智明山繁成寺|正四位安川繁成氏が開基となり明治17年創建
繁成寺の概要
浄土宗寺院の繁成寺は、智明山攝取院と号します。繁成寺は、正四位安川繁成氏が開基となり、智明上人を開山として明治17年創建、青山善光寺の住職深山法運師が初代住職に就いたといいます。
山号 | 智明山 |
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院号 | 攝取院 |
寺号 | 繁成寺 |
住所 | 港区西麻布4-11-7 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
繁成寺の縁起
繁成寺は、正四位安川繁成氏が開基となり、智明上人を開山として明治17年創建、青山善光寺の住職深山法運師が初代住職に就いたといいます。
「麻布區史」による繁成寺の縁起
智明山攝取院繁成寺 笄町一二六
知恩院末、本尊阿彌陀如来は元久年間、安川氏の遠祖智明上人東歸の際圓光大師より申受け、上野國菌田荘酒長御厨小食郷に安置した念持佛で、佛師賢間子作と云ふ。明治十七年實業家安川繁成(明治三十九年八月二十九日歿)の開基に係り、智明上人を勧請開山としてゐる.
北白川宮能久親王、柳原二位局等高貴の方々も御微行で屢々御詣でになつてゐる。俗にカンカン寺と呼んでゐるが、それは秋月子爵や毛利侯の母堂など名門の婦人が参集して、日夜常行念佛を勤修し鉦の音の絶え間がなかつたことから起つたのである。
明治の名妓として侠名を天下にうたはれた今紫(本名高橋幸子)は當寺に於て歿したと云ふ。一説に神田三崎座に死すとある。時に大正二年九月二十九日、年六十一。墓は當寺所属の青山墓地にある。(「麻布區史」より)
東京名所図会による繁成寺の縁起
繁成寺
繁成寺は。麻布笄町百二十六番地に在りて。常行念佛の道場たり。門前に水茶店あり。石井を設けて清泉を引けり。之を毘砂門水といふ。當寺に毘沙門天を安置せるを以てなり。門に入れば左の丘上に地蔵尊の大龕あり。扁額に左の如く刻せり。
地蔵尊一體を繁成寺に寄附するときよめる
高崎五六
是よりは世に出まして地蔵尊 あまたの人に利益たれませ
是にて高橋家の寄附たるを知る。堂に上れば。永代供養塔ありて。當山勧請開山智明上人の師彫刻せる弥陀三尊を安置し。並に従一位正親町公爵の親寫寄納せられし浄土三部妙典。及び正二位毛利公爵の奥向より寄納ありし谷文晁の彩密畫融通念佛縁起の巻を首め。甲乙兩部大過去帳と血脈授與の名帳を蔵す。右の方に毘沙門天の寶龕ありて。奉進點燭の光赫赫と其の前に輝き。三四華族の寡婦人徐かに鉦を鳴らし念誦をつまぐりて稱名す。又左の方より堂の周棚に釋尊天二菩薩十六弟子十六羅漢五百羅漢の木像を排置せり。由来は下に記す。
抑當時は。明治十七年の秋正四位安川繁成君の開基にして。智明上人を勧請開山とし。深山法運師を初代とす。特別の由緒あるを以て。二十三年七月智恩院の客末に攝し。檀林同様別格の取扱を受くることとなり。
初代法運師は。現住の老僧にして。もと芝増上寺學寮に在りしが。明治八年三月十五日。日課念佛の血脈を百萬人に施與せむと立誓し。芝田町に於て澡浴の法を行し。其の香湯を以て数萬人に施浴し。衆生結縁の助道と為す。後ち退きて芝公園鑑蓮社に寓し。十五年十月青山善光寺の住職となり。十七年に至り當寺を開創して此に轉住せり。其の間の履歴には甚だ面白き事實多けれども。長きを以て之を略す。
毘沙門天
當寺に安置する毘沙門天は。天治二年四月良忍上人一刀三禮を以て彫刻したる者にして。天仁年間之を山城國大原山来迎院に安置し。念佛を勧請す。後ち享和年中同院火災に罹りしも恙なかりしば。時の住持本堂再建の為奉じて江戸に来り。兩國回向院に開扉せしも。其の望を達するを得ず。遂に本所の某寺に托して去る。然るに之を安置せる本堂に夜半念佛を唱ふる聲ありとのことにて。念佛毘沙門天の稱を得たり。明治六年此寺鮫ヶ橋の某寺に合併し。毘沙門天も亦ここに移せり。十二年秋彼岸の中日。其の廃抛放置の状態を告ぐる老人ありて。其の奉持すべきを勧む。法運師喜びて之を諾す。老人乃ち浄財を喜捨し。即日當寺に移せりといふ。(東京名所図会より)
繁成寺の周辺図
参考資料
- 「麻布區史」
- 東京名所図会