大坊本行寺|大田区池上にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

大坊本行寺|日蓮宗由緒寺院、池上三院家

大坊本行寺の概要

日蓮宗寺院の大坊本行寺は、長祟山と号します。大坊本行寺は、弘安5年(1282)日蓮聖人入滅後まもなく宗仲公が館を寄進して本行寺が開創されました。理境院照栄院と共に池上三院家の一つです。

大坊本行寺
大坊本行寺の概要
山号 長祟山
院号 -
寺号 本行寺
住所 大田区池上2-10-5
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 本行寺鶴林殿で、葬儀利用可能
備考 池上本門寺末の池上三院家



大坊本行寺の縁起

大坊本行寺は、弘安5年(1282)日蓮聖人入滅後まもなく宗仲公が館を寄進して本行寺が開創されました。

池上の寺めぐりによる大坊本行寺の縁起

弘安5年(1282)日蓮聖人が入滅された池上宗仲公の館跡。日蓮聖人入滅後まもなく宗仲公が館を寄進して本行寺が開創された。日蓮聖人が最後の講義をされたときの「お寄り掛かりの柱」や亡くなるとき一斉に花が咲いたと伝えられる「お会式桜」が境内にある。なお、「大坊」という呼び名は池上本門寺の支院並びに末寺を代表するお寺という意味の尊称である。(池上の寺めぐりより)

新編武蔵風土記稿による大坊本行寺の縁起

日蓮入滅所大坊
長栄山本行寺と号す。是宗仲の館跡にして、実に日蓮入滅の地なり。上人入滅の後宗仲其宅を捨て日澄に付す。日澄は日朗の弟子にして、宗道に志あつく、九老の仲尤尊宿にして法燈を輔くべき器なれば、宗仲深く崇信せし故此擧あり。日朗もまた軽んぜず、遂にこの坊の開山とせり。もと三院家の次第は、開基の人によれば照栄院・久成坊(註:現理境院)と定むべきを、当坊は宗祖入寂の地といひ、ことに大旦那宗仲の宅跡といひ又開基日澄尊宿にして実に本他の棟を扶翼し、本門寺を補佐すべきの才あるにより、日朗在鎌倉の時は此人獨本門寺を守護せしによりて、第一とせりと云。
表門、南に向ふ。
日蓮入滅場。則客殿なり。六間に七間、南に向ふ向拝あり。本尊三寶を安ず。客殿の内一隔をなし、臨滅度の三字を扁す。古の家作近き頃までも存せしと云。今続に日蓮入滅の期に臨んで、倚そひしといふ柱一基あり。本尊日蓮の木像は長三寸許。日蓮在世の時その姿を鏡にうつせしを三法傍にありて彫刻せし像にして、宗仲夫婦の看経佛なりしとぞ。又かの夫婦の木像あり。長六寸許法軆の姿なり。本尊の側に安ず。宗仲法名は日宗、妻女は妙宗と号せしといへり。
硯ノ井。客殿の東にあり。日蓮此水をもて本尊を図し、又譲状等をかきしと云傳ふ。
祖水祖師堂。井の東にあり、九尺に二間、硯の井の側にあるゆへに此号あるなるべし。祖師の立像は長一丈六尺ばかり。
灰堂。客殿の東南にして山下にあり。二間に三間、日蓮を荼毘せし所なり。当時宗仲宝塔を作り、余灰をその中に盛りて安ぜりといふ。
裏門。西に向へり。(新編武蔵風土記稿本門寺項より)


大坊本行寺所蔵の文化財

  • 日蓮聖人坐像(大田区指定有形文化財)
  • 三十番神画像(大田区指定有形文化財)
  • 本行寺文書(大田区指定有形文化財)
  • 池上宗仲夫妻坐像(大田区指定有形文化財)
  • 正応三年の題目板碑と板碑群(大田区指定有形文化財)
  • 法華経版木(東京都指定有形文化財)
  • 日蓮上人入滅の旧跡(東京都指定旧跡)

日蓮聖人坐像(昭和50年3月19日指定)

像高56.7センチ、木像寄木造り、彩色、玉眼。胎内腹部に「武州立花之郡稲毛之庄渋口郷施主尾曽川忠盛(花押)仏師鎌倉伊与守」と墨書銘があるが、記年はない。渋口郷は現在の川崎市高津区子母口で、この地の旧家小(尾)曽川氏は同所の日蓮宗円融寺の檀越で、同寺の墓域には同氏の先祖の五輪塔などがいまも残されている。
円融寺の開山は池上本門寺9世日純(1482-1550)で、大坊本行寺から栄進した僧である。
おそらく小曽川氏との信仰関係が深かったに違いない。本像は、円融寺が開創されたと伝えられる天文3年(1534)=この年の12月大坊も焼失からそう時代を経ない中世の作品と考えられ、鎌倉仏師の作風を示す日蓮像としても注目されよう。(大田区教育委員会)

本行寺文書(昭和50年3月19日指定)

1.大曼荼羅25点
2.古文書16点
3.記録書跡類8点
当寺に伝存する古文書は、池上本門寺の補足資料として重要な意味を持ち、日蓮宗池上本門寺教団史解明の手がかりとして、貴重な存在である。
特に、中世の当寺および池上本門寺歴代の本尊(大曼荼羅)や、寺門経営に関する書状などが重要。近世では、幕府側の天海・崇伝が、身延山久遠寺の後住職問題に干与した事実を示す書状など、その他いずれも史料性の高い貴重なものが多い。(大田区教育委員会)

池上宗仲夫妻坐像(昭和50年3月19日指定)

木像寄木造り、彫眼、像高217センチ。本像の寄進者は丹波屋半兵衛、開眼の導師は身延山久遠寺33世日享で、至徳4年(1714)に造られたことあ、台座の銘文によってわかる。
よく祖型を残し、後補された様子もなく、小型ながら肖像彫刻として極めて精巧なものである。
胎内には曼荼羅本尊などを記した小紙片が収められているが、筆者を詳らかにしない。
宗仲夫妻は日蓮の大檀越(篤信者)で、日蓮が夫妻の邸で入滅したのは有名である。(大田区教育委員会)

正応三年の題目板碑と板碑群(昭和49年2月2日指定)

当寺には池上本門寺境内に散在していた板碑が四十余基ある。
この附近一帯(池上本門寺周辺)は、題目板碑の密集地として、わが国でも屈指の地といえよう。
年代のわかっている板碑の中で、特に正応3年(1290)のものは、題目板碑として最古のものである。
この板碑は上半部が欠失しているが、その大きさや銘文から、全長150センチはあったと推測される。池上本門寺の開創大檀越、池上氏一族と何等かの関連があったものと思われる。(大田区教育委員会)

日蓮上人入滅の旧跡(昭和11年3月4日東京都旧跡指定)

日蓮(1222-1282)は鎌倉中期の僧で日蓮宗の開祖。安房国に生まれ、若くして天台宗を学ぶ。長じて鎌倉・比叡山・南都・高野山などで修業し、仏法の真髄が「法華経」にあるとし、きびしく他宗を排撃したため、諸宗・為政者から圧迫を受けた。 晩年は甲斐身延山に隠棲し弟子や信者の指導にあたっていたが、弘安5年(1282)9月8日病の悪化とともに身延山を出発、18日に武蔵国千束郷池上右衛門太夫宗仲の邸(現・本行寺境内)に到着し、10月13日の朝、この場所で入滅した。 病中の日蓮が身延山を立ってここに移ったのは、その昔、法華経を説いた釈尊が霊鷲山から艮(東北方)にあたる工匠純陀の家で入滅した故事にならったものである。(東京都教育委員会)

大坊本行寺の周辺図