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勝国寺|世田谷区世田谷にある真言宗豊山派寺院

勝国寺の概要

真言宗豊山派寺院の勝国寺は、青龍山と号します。勝国寺は、吉良政忠(法号勝国寺照岳道旭)が開基となり、世田谷城の裏手鬼門除けとして丸香山薬師院と号しと号し創建、吉良家滅亡後も江戸幕府より12石の朱印状を与えられた御朱印寺として栄え、末寺6ヶ寺を擁した小本寺だったといいます。玉川八十八ヶ所霊場の48番霊場です。

勝国寺
勝国寺の概要
山号 青龍山
院号 -
寺号 勝国寺
住所 世田谷区世田谷4-27-4
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 勝国寺青龍殿
備考 玉川八十八ヶ所霊場48番札所



勝国寺の縁起

勝国寺は、吉良政忠(法号勝国寺照岳道旭)が開基となり、世田谷城の裏手鬼門除けとして丸香山薬師院と号しと号し創建、吉良家滅亡後も江戸幕府より12石の朱印状を与えられた御朱印寺として栄え、末寺6ヶ寺を擁した小本寺だったといいます。玉川八十八ヶ所霊場の48番霊場です。

新編武蔵風土記稿による勝国寺の縁起

(世田谷村)勝国寺
境内除地二十間に四十間餘、字元宿にあり、新義真言宗、多摩郡中野村寳仙寺の末なり、山を丸香といひ、院を薬師と稱す、寺領十二石を賜へり、開山は詳ならず、中興開山は権大僧都定慶也貞享元年正月九日示寂す。相傳ふ、當寺は吉良義高の祈願所なりと、按ずるに吉良系図を見るに義高と云人をのせず、疑ふべし。本堂は南向にて八間に六間、本尊不動一丈二尺七寸その餘一行善師弘法大師理現大師の諸像を本堂に安置せり。
表門。三間南向なり。
薬師堂。門を入て左にあり、三間四方なり。薬師如来は長一寸八分。
山王社。門を入て左にあり。(新編武蔵風土記稿より)

せたがや社寺と史跡による勝国寺の縁起

青竜山勝国寺はもと丸香山薬師院と号し新義真言宗豊山派に属し、玉川八十八ヶ所霊場第48番の霊場で、中野の宝仙寺の末、愛宕下真福寺触下となっていた。開基は吉良政忠(法号勝国寺照岳道旭)で、天文23年(1554)12石を寄進し、同年人足賃銭1人につき400文ずつ、延べ830人分、332貫文、翌弘治1年950人分、380貫文、同2年580人分、230貫文を造営費として使ったということである。
吉良家滅亡後、天正19年(1591)11月、徳川家康は元の如く世田谷の地12石を寄進し、家光も前例により12石を寄進し、また寺中竹木諸役を免除したが、3代家綱以後、歴代の将軍も同様の朱印状を与えている。この高12石の反別は、4町4反4畝で田は1町9反2畝、畑は2町2畝、林は5反となっている。
この寺は世田谷城の裏手鬼門に当たり、時の城主吉良氏は鬼門除けとして薬師如来を納め祀り、代々吉良家の祈願所としたという。昭和20年の空襲により、堂舎は炎上したが、もとは本堂(48坪)のほか、庫裡、木立90本と記録にあり、小本寺として、円光院円乗院、多聞寺、泉竜寺、善性寺密蔵院の6ヶ寺を末寺としていた。
本尊は不動明王で、焼失の前は一行大師、弘法大師、理源大師の諸像が安置されていて、薬師如来は十二神将を伴い、他に巡行薬師1体があった。戦災により破損した薬師像の修復に際し、頭部を分離すると胎内に天正20年(1592)9月付の古文書が発見された。これによると、中興開山の大僧都頼融が薬師三尊と十二神将を修復し、三尊の金箔の願主は関加賀守一家で、十二神将6体分の願主は大場越後守信久、同6体分は円光院開基権大僧都盛尊阿闍梨で、鎌倉仏師阿快翁が粉彩を施し、荘厳せられたことがわかった。
なお、2世定音が薬師堂を造立し、3世頼慶が薬師厨子とも造立、6世宥信が元禄11年(1698)に薬師堂を造立、16世祐貞は寛政6年(1794)本堂を造営、栄伝が文久3年(1863)16坪の薬師堂を造立している。境内には吉田松陰と親しかった維新の志士儒者土屋蕭海の墓がある。(せたがや社寺と史跡より)


勝国寺のもと末寺


勝国寺の周辺図


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