西光寺|品川区大井にある浄土真宗本願寺派寺院
西光寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の西光寺は、栄松山と号します。西光寺は、弘安9年(1268)3月栄順律師が開創し、後浄土真宗に改宗しました。
山号 | 栄松山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 西光寺 |
住所 | 品川区大井4-22-16 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 境外仏堂:倉田地蔵堂(大井4-22-13) |
西光寺の縁起
西光寺は、弘安9年(1268)3月栄順律師が開創し、後浄土真宗に改宗しました。
「品川区の文化財」による西光寺の縁起
弘安9年(1268)3月栄順律師が開創した寺である。当時は天台宗であったが、のち浄土真宗にかわった。浄土真宗に改宗した時期はわからない。当寺の歴世は、当寺に遺されている天明2年(1782)頃直筆の過去帳によると栄順以来世襲で継承されているので、開創直後に改宗したことが推察される。ただ6世は5世了証の子であるにも拘わらず心月律師となっているので一時期天台宗に復していたことも考えられる。
その後慶長年中(1596-1615)に至って栄空が再興したといわれている。栄空は前述の過去帳では15世空善とされ、清原武則の長子で幼名を伯王丸と呼び父は北条氏康の幕下であったと記述されているが当寺に記されている「芳賀氏系図」では栄空は芳賀出雲守定仲と呼び孝譲朝、天平勝宝5年(753)に下野国司となって芳賀郡に住んだ。芳賀豊澄の子孫だといわれ織田信長麾下の武将であったが信長の死後比叡山に隠れて出家し、三年後比叡山を下って当寺の住職になったといわれている。この系図によると定仲は武田信玄の家臣であった芳賀右近介定明(のちに入道して玄覚と呼ぶ)の子で定明は天目山の戦いで武田勝頼と共に戦死し、その子の定仲は織田信長に仕えたといわれている。
当寺には前記の「過去帳」一冊、「芳賀氏系図」一巻のほか武田信玄が玄覚に与えた「感状」一通、徳川家康が玄覚に与えた「御教書」一通が、現在も遺されている。
江戸時代には当寺も来迎院と同様桜の名所であったが、明治26年(1893)5月に当寺は火災に遇って本堂その他の建造物と桜の名木が焼けてしまっている。(「品川区の文化財」より)
新編武蔵風土記稿による西光寺の縁起
西光寺
除地2畝25歩、村の中央にあり。浄土真宗江戸麻布善福寺末なり。栄松山と号す。古は天台宗にて弘安9年栄順法師の開基なりしが、其後何の頃にや改めて今の宗となれり。慶長年中栄空沙門中興す。栄空のことは後に見えたり。客殿6間半に6間、本尊阿弥陀如来を安ず。
客殿の前に兒櫻醍醐の2株あり、尤古木なり。
寺宝
聖徳太子木像一体。太子16歳の像と云。杉の丸木にて刻み長8寸許。
六地蔵木像各体。小野篁の作。各長3寸余の立像。
六字名号二幅。一は顕如上人、一は蓮如上人の筆。
系図一巻。当寺中興開山栄空の系図なり。其譜の大略に云、栄空沙門俗称は芳賀出雲守定仲と云、織田信長の麾下なり。信長死後比叡山延暦寺へ隠れ、法徳坊を師として剃髪染衣のすがたとなり、三年を歴で東都へ下り、やがて当寺の住職となれり。定仲の父は下野国芳賀豊澄の後裔右近介定明と云。後に入道して玄覚と称す。武田信玄の甥にて屡戦功ありし人と云。信玄より賜はりし感状及び陣羽織、東照宮の御教書等を傳へて今も寺宝となせり。系図の末に左の数行を記しあり。
抑当家者累代不絶而世類鮮乎、然者定明使武田信玄軍功有之人也。依之而定仲使当家先祖事、信長公依而御尋、定季方有之巻入上覧、則写之胎定仲者也。
天正10年正月15日 楠河内守正虎 入道長庵
芳賀累代系図長庵拾処不可怪者也。
文禄元年5月11日 秀次
御教書1通(中略)
陣羽織一領、武田信玄の陣羽織なり。唐織茶地青黄紅の色糸をもて惣体へ丸き形を織り、その内へ鳥及家に木立などの文あり、羽織の製は袖なしにして、尋常の陣羽織なり。長2尺2寸余幅1尺5寸許。
貴布禰社蹟。門を入て左の方藪の中にあり。南品川宿にある貴船神社(現荏原神社或いは品川神社)は往古此地にありしと云。(新編武蔵風土記稿より)
西光寺所蔵の文化財
- 西光寺石造供養塔(品川区指定文化財)
西光寺石造供養塔
(1)明暦元年・(1655)造立、地蔵菩薩彫刻の舟型、(2)寛文9年(1669)造立、阿弥陀如来彫刻の舟型、(3)寛文13年(1673)造立、阿弥陀如来彫刻の笠塔婆型の3基。(4)(2)は念仏講の女性が、(3)は大井村の人々が造立したもの。(「品川区の文化財」より)
西光寺の周辺図