大龍寺|品川区南品川にある黄檗宗寺院

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大龍寺|品川区南品川にある黄檗宗寺院

大龍寺の概要

黄檗宗の大龍寺は、瑞雲山と号します。大龍寺は、長徳寺を開山した覺阿が時宗寺院の明王山東光院として寛正4年(1463)創建したといいます。元禄16年(1703)黄檗宗の僧百泉己が衰微していた当寺を黄檗宗寺院の瑞龍山大龍寺と改め、中国僧慧林を開山に迎えたといいます。

大龍寺
大龍寺の概要
山号 瑞雲山(旧明王山東光院)
院号 -
寺号 大龍寺
住所 品川区南品川4-2-16
本尊 釈迦三尊
宗派 黄檗宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大龍寺の縁起

大龍寺は、長徳寺を開山した覺阿が時宗寺院の明王山東光院として寛正4年(1463)創建したといいます。元禄16年(1703)黄檗宗の僧百泉己が衰微していた当寺を黄檗宗寺院の瑞龍山大龍寺と改め、中国僧慧林を開山に迎えたといいます。

新編武蔵風土記稿による大龍寺の縁起

(南品川宿)大龍寺
除地五畝八歩、年貢地三段五畝廿七歩、本光寺の西隣なり、瑞龍山と號す、禅宗黄檗派宇治萬福寺末、昔明王山東光院と號す、時宗の古刹あり、寛正四年起立、開山は北品川長徳寺開山覺阿なり、故に長徳寺僧代々の隠栖所と定めて某末寺に隷せしが、後衰微して法燈絶なんとす、元禄十六年檗僧百泉己が派に改んと欲し、本寺藤澤清浄光寺に請て奉行所に訴へ、許可を得て百和泉譲受隠元禅師の弟子慧林を請て開山第一祖とす、天和元年十一月十一日休寂す、これより先力を獲て開基せしは藤堂伊豫守良直なり、良直法號を大龍院といふ、故に寺に命ず、本尊釈迦観音勢至ともに坐像長さ三尺唐像なりといふ、本堂は東向き京間六間に四間なり、鐘楼門を入て正面にあり、寛永元年の鐘をかく。
観音碑。鐘楼の側にあり、碑面に観音の立像を彫る、唐の呉道子が寫せし像を刻す、百泉が立るところなり。(新編武蔵風土記稿より)


大龍寺所蔵の文化財

  • 木像釈迦如来及両脇侍像(品川区指定有形文化財)
  • 伽藍神倚像(品川区指定有形文化財)
  • 紙本墨画淡彩蘆葉達磨図(品川区指定有形文化財)
  • 絹本着色羅漢図双幅(品川区指定有形文化財)
  • 紙本墨画文殊騎士図(品川区指定有形文化財)

木像釈迦如来及両脇侍像

中尊の釈迦如来は像高31.4cm、左右の脇侍はそれよりもやや小型、三尊とも一木造で金泥塗の坐像である。
中尊は螺髪が大きく、両手を禅定印に結ぶ。向かって右の脇侍は右手を腹前、左手を胸前に挙げ、頭部はともに宝冠をいただく。この両脇侍像は、いずれも普賢菩薩と思われる。
元禄16年(1703)、本寺が時宗から黄檗宗に転じたとき、京都宇治の万福寺本尊の胎内仏を秒したものといわれ、三尊を一つの厨子に収めて当寺の本尊とした。

伽藍神倚像

像高73.2cm、寄木造・彫眼の像で、膝を開いて椅子に腰をかける姿勢。宝冠と衣部は金泥塗である。
中国では唐・宋時代から泰山府君等を寺院の守護神とし、わが国では平安時代以来、春日明神、山王権現等の神を祀る風習があった。
この伽藍神は黄檗宗の慣例によったものと思われ、本尊が施入されたとき、同時に本堂に安置されたものと伝えられる。

紙本墨画淡彩蘆葉達磨図

縦256.0cm、横81.0cmの軸仕立てである。
頂上に市女笠を冠り躯は粗末な法衣で包み、葦の上に立った菩薩達磨の姿である。作者は黄檗僧独堪性瑩で、江戸時代初期の天和2年-元禄16年(1682-1703)頃の作である。

絹本着色羅漢図双幅

双幅とも縦115.4cm、横45.0cmの軸仕立てで、16羅漢のうち、第六跋陀羅尊者と第十半托迦尊者を別々に描いたものであり、文化14年(1817)に谷文兆が描いたものである。
谷文兆は、中国画を研究し、狩野・土佐・南画・洋画の手法を折衷して新画風を創造した江戸時代後期を代表する画家である。

紙本墨画文殊騎士図

縦52.0cm、横20.2cmの軸仕立てである。
獅子に騎乗した文殊師利菩薩の姿を俳画風に描き、上部に賛が書かれている。文政7年(1824)義梵仙崖の作で、近年本寺に納められたものである。
仙崖の作風がよくわかる作品である。
大龍寺は、時宗東光寺として寛正4年(1463)に開創したが、元禄16年(1703)中国僧慧林を開山として黄檗宗に改宗した。

大龍寺の周辺図