月光山正福寺|荒川辺八十八ヶ所、荒綾八十八ヶ所
正福寺の概要
真言宗智山派寺院の正福寺は、月光山薬王院と号します。正福寺は、慶長7年(1602)宥盛法印により創建されたと伝えられます。歴代住職の中で伝雅和尚は無類のねこ好きで数十匹のねこを飼っていたことから、「ねこ寺」と呼ばれていたといいます。寺内にある首塚地蔵は首から上の病気にご利益ありと言われ、多くの参詣者があります。荒川辺八十八ヶ所霊場66番、荒綾八十八ヶ所霊場66番、新葛西三十三所観音霊場18番です。
山号 | 月光山 |
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院号 | 薬王院 |
寺号 | 正福寺 |
住所 | 墨田区墨田2-6-20 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 荒川辺八十八ヶ所霊場66番札所、荒綾八十八ヶ所霊場66番札所 |
正福寺の縁起
正福寺は、慶長7年(1602)宥盛法印により創建されたと伝えられます。歴代住職の中で伝雅和尚は無類のねこ好きで数十匹のねこを飼っていたことから、「ねこ寺」と呼ばれていたといいます。
新編武蔵風土記稿による正福寺の縁起
正福寺
同末(多聞寺と同じ新義真言宗、寺嶋村蓮花寺末)月光山薬王院と号す。慶長7年起立し本尊薬師別に両大師を安す。(新編武蔵風土記稿より)
「墨田区史」による正福寺の縁起
正福寺(墨田二丁目六番二〇号)
月光山薬王院と号し、真言宗智山派に属し、蓮花寺の末寺である。慶長七年(一六〇二)に宥盛法印が開山したと伝え、本尊は薬師如来である。開山以後十数代を経た住持伝雅和尚は無類のねこ好きで、寺内に数十匹のねこを飼っていたことから、以来「ねこ寺」の通称で呼ばれたという。
門前に首づか(塚)と呼ばれるほこらがある。これは天保四年(一八三三)の隅田川しゅんせつ工事の際に出土した多数の人骨を埋葬し、供養の地蔵尊を建てたもので、取り分け頭部の骨が多かったことから首づかと呼ばれるようになり、いつしか首から上の病を治してくれると信じられるようになった。同寺には、板碑三枚のほか、寛文十年(一六七〇)銘の庚申供養塔などがある。(「墨田区史」より)
正福寺所蔵の文化財
- 宝冶2年銘正福寺板碑(墨田区登録文化財)
- 万冶4年銘阿弥陀如来像(成林庵から移したもの)(墨田区登録文化財)
墨田区教育委員会掲示による正福寺板碑
板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(青石)で、頭部・碑身・脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面には種字(仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。
板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。中世の武士達が供養のために建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には三基の板碑があります(登録は二基)
宝治二年(1248)銘の板碑は高さ116センチ、幅46センチ、厚さ10センチで区内では随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては、都内最古です。阿弥陀一尊を種字で刻み「宝治二年戊辰三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。
登録されているもう一基は、碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当時に移されたといわれます。なお、区内には約30基の板碑があります(平成14年3月 墨田区教育委員会)
すみだの史跡文化財めぐりによる正福寺板碑
本堂前に起立しています。ボリューム感のある青石(緑泥片岩)の塔婆(高116cm)です。これは近くの御前栽畑から出土したものと伝えられます。
弥陀の種字(梵字)を大きくおどらせて上部中央にすえ、その下に銘して「宝治2年(1248)戌申3月3日」としています。この武蔵型板碑は原石産地が埼玉県秩父方面であるだけに、荒川流域に多く、この「宝治2年」銘板碑は都内で最古のものであることが確認されています。
板碑は鎌倉時代を中心にして流行した塔婆で、現在多くは仏寺・墓域で見られます。そして弥陀・釈迦を振興し、願文・回向文・題目・讃などを表現もしています。中には、逆修(預修)といって、生前に供養するものさえあります(法泉寺の「貞和3年・1347年銘板碑」)。
正福寺には、このほかに、年紀不明の弥陀三尊のもの2基(うち1基は鶴岡氏墓所内)が保管されています。区内全体としては28点(うち1点は牛島神社の参考拓本)を数えますが、いずれも区内北部の、ほぼ隅田川と東武伊勢崎線に囲まれた地域に集中することは、すこぶる興味のあることです。なお、これらのうち、区の登録文化財に登録されているのは20点を数えます。(すみだの史跡文化財めぐりより)
正福寺の周辺図