常在山霊山寺|関東十八檀林
霊山寺の概要
浄土宗寺院の霊山寺は、常在山二尊院と号します。霊山寺は、徳川家康の依頼を受けた念蓮社専譽上人大超和尚が駿河台に慶長6年(1601)創建、明暦の大火で類焼し浅草へ移転、貞享3年(1686)光蓮社明譽遊安廓榮和尚の代に関東十八檀林の一つに列して中興、元禄2年(1689)に現在地へ移転したといいます。
山号 | 常在山 |
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院号 | 二尊院 |
寺号 | 霊山寺 |
住所 | 墨田区横川1-3-22 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 関東十八檀林の一 |
霊山寺の縁起
霊山寺は、徳川家康の依頼を受けた念蓮社専譽上人大超和尚が駿河台に慶長6年(1601)創建、明暦の大火で類焼し浅草へ移転、貞享3年(1686)光蓮社明譽遊安廓榮和尚の代に関東十八檀林の一つに列して中興、元禄2年(1689)に現在地へ移転したといいます。
「墨田区史」による霊山寺の縁起
霊山寺(横川一丁目三番二二号)
浄土宗京都知恩院の末寺で、常在山二尊院と号し、本尊は乱世即応大師の作と伝えられる阿弥陪如来像である。慶長六年(一六〇一)専誉上人大超和尚が、神田駿河台(千代田区内)に二万坪(約六万六〇〇〇平方メートル)の土地を拝領して起立した。その後、寛永三年(一六二六)に本郷湯島(文京区内)へ、明暦大火後には浅草(台東区内)へと移転を重ね、更に、元禄元年(一六八八)十一一月に現在地へ移った。
この間、慶長十八年に徳川家康の命を受けて学寮三〇軒を建て、浄土宗関東一八談林の一つとして教学活動に入っている。この教学は、本郷湯島への移転と前後して中断したが、約六〇年後の貞享二年(一六八五)に再開されており、浅草から現在地に移転したのも学寮再建のための寺地拡張にあったという。
「葛西志」によると、当時の寺地七〇〇〇坪、学寮一五、支院六を数えるが、支院のうち、龍興院、徳寿院、霊性院が寺院として現存している。(「墨田区史」より)
「本所區史」による霊山寺の縁起
靈山寺
靈山寺は太平町一丁目百四番地の一號にあり常在山と號し二尊院と稱した。浄土宗で京都智恩院の末寺であつて關東十八檀林の一である。慶長六年大超和尚の開基する所で貞享三年廓瑩和尚之を中興した。保存は阿彌陀如来である。舊子院に西棲院・良徳院・徳壽院・霊性院・龍興院等があつた。
江戸砂子に、「常在山靈山寺二尊教院 十八檀林 開山念蓮社専與上人大超和尚 本尊阿彌陀。慈覺大師の作。智恩院御門主尊空法親王御持佛也。尊空法親王は五本松に御座ありつるゆへ御影御廟堂境内にあり」と見へてゐる。當寺往古は湯島妻戀坂の上にあり明暦以後淺草に移つた。誓願寺境内安養寺の地は此舊跡である。元禄元辰の春此地に移り、五年に至つて堂塔落成した。檀林は第二世で中絶したのを傳燈第四世中興開山光蓮社明譽遊安廓瑩和尚が再興したのである。此上人は一宗の英傑行徳世にしる所にして。著す所の往生要集指麾抄は人口に膾炙する所である。毎年五月千部修行をなす。(「本所區史」より)
「東京名所図会」による霊山寺の縁起
霊山寺
霊山は、太平町一丁目百四番地の一號に在り。常在山と號し。二尊院と稱す。浄土宗にして京都智恩院の末なり。實に関東十八檀林の一たり。
慶長六年大超和尚の開基する所にして。貞享三年廓榮和尚之を中興す。本尊は阿弥陀如来なり。
舊子院たる西棲院(百〇二番地)良徳院(百十番地)徳壽院(百十二番地)霊性院(百十五番地)龍興院(百十八番地)今猶ほ假存せり。
江戸砂子に云。常在山霊山寺二尊教院 十八檀林
開山念蓮社専譽上人大超和尚
本尊阿弥陀、慈覚大師の作。智恩院御門主尊空法親王御持佛也。尊空法親王は五本松に御座ありつるゆへ御影廟堂境内にあり。観音堂、念佛堂。
當寺往古は湯嶋妻戀坂の上にあり。明暦以後浅草にうつる。誓願寺境内安養寺の地は此舊地也。元禄元辰の春此地にうつり。五年に至て堂塔落慶す。檀林は第二世に中絶せしを。傳燈第四世中興開山光蓮社明譽遊安廓榮和尚再興也。此上人は一宗の英傑行徳世にしる所にて。著す所の往生要集指麾抄さかんに世に行はる。毎年五月千部修行
塔頭。徳壽院、龍興院、良徳院、西棲院
新編江戸志に貞雄云。往古より十八檀林一ヶ寺闕て十七ヶ寺有りしを。御吟味の上此霊山寺に被仰付ける。貞享三丙寅三月二十日御日記曰。浄土宗十八檀林一ヶ寺闕有之付。御改の上今日浅草霊山寺檀林に仰付らると云々。其の時の住職は光蓮社明譽遊安廓榮和尚也。依て是を中興開祖とす。(東京名所図会より)
霊山寺の周辺図