大乗山長運寺|台東区谷中にある日蓮宗寺院
長運寺の概要
日蓮宗寺院の長運寺は大乗山と号します。長運寺は、寛永5年(1628)谷中感應寺(現天王寺、以下同じ)境内に創建、万冶2年(1659)当地へ移転しました。日蓮宗不受不施派の禁止令により感應寺が天台宗にとなったため、身延山久遠寺末となり、感應寺にあった鬼子母神を当寺へ安置したといいます。
山号 | 大乗山 |
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院号 | - |
寺号 | 長運寺 |
住所 | 台東区谷中1-7-4 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長運寺の縁起
長運寺は、寛永5年(1628)谷中感應寺(現天王寺、以下同じ)境内に創建、万冶2年(1659)当地へ移転しました。日蓮宗不受不施派の禁止令により感應寺が天台宗にとなったため、身延山久遠寺末となり、感應寺にあった鬼子母神を当寺へ安置したといいます。
「下谷區史」による長運寺の縁起
長運寺(谷中坂町九〇番地)
身延山久遠寺末、本尊三寶祖師。大乗山と號す、寛永五年五月創建、開山は全兩院日見。(寛文七年正月六日寂)當寺安置祖師像入厨子はもと谷中感應寺(今の天王寺)に安産守護として安置せられたものであるが、元禄十一年感應寺改宗の際、當寺に移されたものと傳へられる。
江戸砂子に、大磯の虎が石なるものゝ當寺にあつたことが見え、新編江戸志には、既にそれが何時の頃か大磯へ返されて無くなつたことが見えてゐる。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による長運寺の縁起
甲斐国身延山久遠寺末 谷中不唱小名
大乗山長運寺、境内玉林寺借地266坪。
寛永5辰年感應寺地内二起立仕、万治2年当境内借地仕候。万治2年日見開基仕、谷中感應寺末寺二御座候処、元禄十四年感應寺天台宗二相成候節、日修御奉行所江御願申上候而、身延山末二相成申候。其節当鬼子母神も当寺江移申候。
開祖日見、寛文7未年正月遷化。
中興日修、寂年月相知不申候。
客殿、本尊中央宝塔、両尊多宝、釈迦各丈8寸坐像、祖師日蓮大士座像、大黒天座像、鬼子母神丈ヶ5寸立像祖師之作。
右、往古は谷中感應寺二安置御座候処、元禄年中当寺江安置仕候。依之称感応鬼子母神。
五番善神丈6寸立像、稲荷大明神丈ヶ3寸立像、三十番神各丈5寸坐像。
右は鎮守堂二有之候処、大破二付天明年中より此処二安置仕候。
虎子石。
右は相州大磯駅、法住寺内拝二出候節、当寺二差置候由。其後人立多く候故、埋有之候由、伝説仕候。尤時代相分不申候。以上丙戊書上
当寺もと感應寺の寺中なり。かの寺、天台宗となりし比、そこにありし日蓮上人作の鬼子母神を持て此所へ一寺を閲ともいへり。改撰江戸志
感應寺の寺中なりし事、詳ならすと云。捜索
大磯の虎か石、故あって当寺に有。長三尺横壱尺二三寸斗。あめ色の丸き石なり。小口五寸はかりかきて其かけともに有。江戸砂子
大磯虎の石、大磯にありし頃は、往来の若き男の此石を挙て興したるも駅路の一興なりしに、享保のはしめ、下谷竹町の徳大寺にて開帳せしめ、其後いかなる故にや、当寺に納めぬるよし。心ある人元の地におくり返しなハ、是も再ひ東海道の一奇物と往来の人もてはやさるへし。惜かな安に埋れぬるを。江戸惣鹿子
当寺に大磯虎の石有。是ハ往年下谷徳大寺にて相州より開帳に来りし時予も見しに、いかなる故に爰にあるや子細しれかたし。江戸惣鹿子名所大全
按するに、江戸砂子に大磯の虎か石当寺にあるよしを記す故、予此寺へ尋ね行てもとむるに、今はなし。何れの頃にか又大磯へ返しけると也。此寺にありしハ昔しはらくの程なりとそ。江戸志
一説に大磯の蓮台寺、江戸へ開帳に出しとき、此石を根岸の百姓にあつけしを爰に納むといふ。或ハ明和九年の比まてありしとも云。改撰江戸志(御府内寺社備考より)
長運寺の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考
- 「下谷區史」