猫の足あとによる台東区の寺院、神社など台東区の寺社案内 猫の足あとによる台東区の寺院、神社など台東区の寺社案内
猫の足あとによる東京都寺社案内

天王寺|台東区谷中にある天台宗寺院

天王寺の概要

護国山天王寺は、もと長燿山感應寺尊重院という日蓮宗寺院として、鎌倉時代に創建され、9ヵ院を擁する本寺でしたが、不受不施派に対する禁令により天台宗に改宗しました。享保年間には富くじ興行が許可されたことで賑い、湯島天満宮目黒不動龍泉寺とともに江戸の三富と称されるほどに賑わっていましたが、上野戦争では、当寺に彰義隊の分営が置かれたことから、本坊と五重塔を残して堂宇を全て焼失、さらに昭和32年の放火心中事件で五重塔を焼失しました。谷中七福神の毘沙門天が祀られています。、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場9番札所です。

天王寺
天王寺の概要
山号 護国山
院号 -
寺号 天王寺
住所 台東区谷中7-14-8
宗派 天台宗
縁日 元旦修正会、元旦-1月10日谷中七福神巡り
葬儀・墓地 -
備考 上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場9番札所



感應寺に始まる天王寺の案内

日蓮上人はこの地の住人、関長燿の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長燿は草庵を結び、その像を奉安した。伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(1294-1427)頃の創建という。
「東京府志料」は、「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ日蓮宗ニテ長燿山感應寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。江戸時代、ここで”富くじ”興行が開催された。目黒不動滝泉寺湯島天満宮の富くじとともに、江戸三富と呼ばれ、有名だった。富くじは現在の宝くじと考えればいい。
元禄12年(1699)幕府の命令で、感應寺は天台宗に改宗した。ついで天保4年(1833)、天王寺と改めた。境内の五重塔は、幸田露伴の小説、「五重塔」で知られていた。しかし昭和32年7月6日、惜しくも焼失してしまった。(台東区教育委員会)


天王寺所蔵の文化財

  • 天王寺五重塔跡(東京都史跡)
  • 塩谷宕陰の墓(東京都旧跡)
  • 田安宗武墓(8代将軍吉宗の次男、松平定信の父)
  • 大橋訥庵墓(坂下門外の変で老中安藤信正を襲った人物)
  • 朝倉文夫墓(明治時代の彫刻家)
  • 牧野富太郎墓(植物学の大家)
  • 木造毘沙門天立像(台東区指定文化財)
  • 旧感應寺(天王寺)富興行関係資料(台東区指定文化財)
  • 絹本着色両界曼荼羅(台東区登載文化財)
  • 絹本着色阿弥陀二十五菩薩来迎図(台東区登載文化財)
  • 絹本着色天台大師画像(台東区登載文化財)
  • 銅造釈迦如来坐像(台東区登載文化財)
  • 村垣淡路守範正墓(遣米副使)

木造毘沙門天立像(昭和62年度指定)

本像は、ヒノキ材の一木造で、体内をくりぬかない彫法によって作られています。量感あふれる体型と頬と顎の張った表情や、大袖の特徴ある衣文の彫りは、その作風から平安時代中期(10世紀)ごろの作品とみられます。像高は116.8cm。頭、体とも正面を向き、邪鬼の上に立ち、左手に宝塔をのせ、右手には宝棒を握っています。
天王寺は、もと感應寺という日蓮宗の寺院でしたが、元禄11年(1698)江戸幕府の命令で天台宗に改宗させられました。この改宗にさいし、京都の鞍馬寺が比叡山の乾(北西)の方角にあり毘沙門天をまつっていることになぞらえて、寛永寺の乾の方角にあたる天王寺にも毘沙門天を迎えることになりました。こうして本像は元禄12年比叡山からもたらされ、この寺の本尊になりました。天王寺の毘沙門天は、江戸の人々の信仰を集め、多くの参詣者でにぎわいました。江戸時代後期からは、谷中七福神のひとつに数えられ、いまも庶民に親しまれています。
本像とともに指定をうけた『感應寺毘沙門天王記』は、享保16年(1731)寛永寺凌雲院実観の筆になるもので、本像が比叡山から天王寺に移された経緯がくわしく記されています。

旧感應寺〈天王寺〉富興行関係資料(平成4年度指定)

天王寺は、かつて感應寺という日蓮宗の寺院でしたが、元禄12年(1699)天台宗に改宗、天保4年(1833)天王寺と改めました。
この感應寺では天保13年まで、現代の宝くじのル-ツ「富突」を催し“谷中感應寺の富突”といえば江戸市民の人気をもっとも博したものでした。この天王寺には富突の実態を克明に記録した、次の11点の史料が遺されています。
◆「富御祝儀渡帳」
1冊文化6年(1809)以後の成立
◆「(富興行)定書」
1枚、天保4年(1833)から同5年
◆「当山帰宗一件記」
1冊、嘉永2年(1849)成立
◆「富興行一件記」
3冊、嘉永2年(1849)成立
◆「当時有形絵図面」
1枚、嘉永2年(1849)成立
◆「奉歎願口上覚」
1冊、嘉永3年(1850)成立
◆「奉伺口上覚」
1冊、嘉永4年(1851)成立
◆「突富興行願諸用記」
1冊、安政3年(1856)成立
◆「感應寺領坪数并持添地其外坪数訳書之写」
1冊、享保6年(1721)の記録を江戸末期~明治時代に写したもの。
◆「感應寺領坪数并持添地其外坪数訳書」
同前、
◆「保存箇所并堂宇再建見込書」
1冊、明治22年成立
実は、これらの史料が発見されるまで、感應寺はおろか、江戸時代の富突の実態はあまり明らかではありませんでした。しかし、天王寺の史料を解読してみますと、富興行のありさまが細部にわたって理解できます。
たとえば従来の定説では、幕府公認の富興行は享保15年(1730)京都仁和寺が江戸音羽護国寺境内で行ったものが最初と考えられてきましたが、天王寺の史料によって、それより30年前の元禄末年(1700年頃)には感應寺で興行していたことがわかりました。
その他、富突の開催をめぐる感應寺と幕府の交渉の有様、富札1枚の値段が庶民にとって高額だったことから生じたヤミ行為の顛末、あるいは富突に使用する箱・札・錐などの道具の寸法といった細かいことまで、様々な事実が明らかとなっています。
天王寺所蔵の11点の富興行関係史料は、単に富突だけでなく、江戸の風俗・文化を知る上でも、きわめて貴重な史料です。

絹本着色両界曼荼羅(平成2年度登載)

天台宗天王寺所蔵の本図は、胎蔵界曼荼羅・金剛界曼荼羅の双幅からなる、もっとも一般的な形式の曼荼羅です。胎蔵界曼荼羅は、大日如来ほか諸仏の慈悲を象徴化し、金剛界曼荼羅は大日如来の智徳によって開かれた仏の世界を象徴化した図です。
大きさは、胎蔵界が縦100.6cm・横100.9cm、金剛界が縦100.9cm・横86.2cm。
両界とも、京都東寺の伝真言院曼荼羅(国宝)とよく似ていますが、同図が平安時代の制作で唐様式の濃い図であるのに対し、天王寺所蔵の曼荼羅は和様化がすすんだ図で諸仏の顔に可憐さを感じる点から、鎌倉時代後半の制作と思われます。区内現存の曼荼羅でも古い制作に属する、貴重な美術品です。

絹本着色阿弥陀二十五菩薩来迎図(平成3年度登載)

天王寺はもと長燿山感應寺といい、元禄12年(1699)日蓮宗の一派に対する弾圧により天台宗に改宗、のち護国山天王寺と改めました。
来迎図は、臨終の際に阿弥陀如来など聖衆が眼前に現れ、極楽浄土に迎えるという『観無量寿経』に説く情景を描くもので、浄土信仰の興隆とともに制作され、平安時代に正面坐像系・斜め坐像系が、鎌倉時代に能動的な如来の姿として立像系来迎図が登場、普及していきました。
本図は、縦102.2cm、横43cm。阿弥陀を中心に、向かって左上方から二十五菩薩立像を斜め構図で、顔・手・楽器の細部まで金泥で緻密に描き、向かって右上方に七化仏を配します。肉身部は地蔵菩薩を除き丹の具地に金泥塗。輪郭線は朱で描き、輪郭・衣紋・光背に切金を用い、衲衣は丹の具地に、文様を金泥で描きます。以上の表現から、作者は不明ですが、南北朝時代の制作とわかります。
 旧蔵者は当寺第16世住職であり天台教学者として著名な福田尭頴で、明治42年12月の修理銘があります。尭頴は明治39年、比叡山延暦寺より転住し、その際に本図がもたらされたものであると考えられます。

絹本着色天台大師画像(平成4年度登載)

天台大師智顗は、天台宗の開祖としてわが国では古来尊崇され、その肖像画も平安時代以来多く描かれました。
天台宗天王寺の所蔵になる本図は、大きさが縦96cm、横41cmで、沓と水瓶を前の床に置き、頭布を被り禅定印を結んで曲ろくの上に坐る姿を描き、典型的な天台大師像を表現しています。褐色の袈裟を着け、紺色の条葉部には金泥で唐草文を描き、衣文線には墨線に金泥の線が添えられて用いられています。なお、作者については土佐行光筆と伝えますが、確証はありません。しかし、その、のびのびとした描線による、おおらかな表現は古様を示しています。
軸止め墨書により、もと大和の金峰山寺の宝物であったと知られます。真言宗僧侶、丸山貫長という人物がこれを所蔵していたのを、個人が買い受け、大正4年6月に当寺に寄進しました。
本図は、その描法により南北朝時代の作品と知られ、確実な筆使いで描かれており、絵具の剥落もこの時代のものとしては少なく、制作は優秀であり、貴重です。

銅造釈迦如来坐像(平成4年度登載)

像背面銘文によって、元禄3年(1690)5月、神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造したとわかります。また、願主は未詳ですが、当寺が天台宗に改宗する前の日蓮宗最後の住持「日遼」の名が刻されています。
青銅を材料とし、割型の製法で鋳造され、螺髪は旋毛形、肉髻珠・白毫相を表し、衲衣・褊衫を着け、両手を胸前で合掌し、大仏座上に結跏趺座します。大きさは像高296cm、髪際高241cm。なお本像は、江戸期の史料に「丈六仏」と紹介されていますが、本像に関しては、髪際高を像の高さとしたものです。「丈六仏」とは、1丈6尺の高さに作る身長を持つ仏像をいい、坐像の場合は、同じ身長の立像の二分の一の高さ、8尺の坐像が丈六です。
本像ははじめ旧本堂右側の地に建てられ、明治7年の谷中墓地開設のため、墓地西隅に残されていたところ、昭和8年現在地に基壇を新築、修理を加えて移され、昭和13年、基壇に納骨堂が設置されました。
本像について『江戸名所図会』や『新撰東京名所図会』に記載があり、谷中地域の、さらに江戸・東京のシンボル的な存在だったと知られます。


天王寺の周辺図


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