海雲山天龍院|台東区谷中にある臨済宗妙心寺派寺院
天龍院の概要
臨済宗妙心寺派寺院の天龍院は、海雲山と号します。天龍院は、梅岩西堂和尚(承応2年1653年寂)が寛永7年(1630)神田に創建、慶安元年(1648)神田寺町へ、元禄14年(1701)当地へ移転したといいます。
山号 | 海雲山 |
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院号 | 天龍院 |
寺号 | - |
住所 | 台東区谷中4-4-33 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
天龍院の縁起
天龍院は、梅岩西堂和尚(承応2年1653年寂)が寛永7年(1630)神田に創建、慶安元年(1648)神田寺町へ、元禄14年(1701)当地へ移転したといいます。
「下谷區史」による天龍院の縁起
天龍院(谷中三崎町六六番地)
淺草海禅寺末、海雲山と號す。本尊釋迦如来。寛永七年五月、神田寺町に創立、開山は僧梅嵓。(承應二年五月十四日寂)慶安元年上野清水門の幕府用地割餘地に移され、後また現地に轉じた。明治戊申の兵變に罹り、現建物は明治三十一年の改築である。
慶安二年以来幕末まで毎年江戸城に年賀登城の折、五葉松、水仙花を獻ずるのを例としたといふ。寺内に蘭醫伊東玄朴、畫家高久靄崖、同高久隆古の墓がある。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による天龍院の縁起
浅草海禅寺末、谷中三崎
海雲山天竜院、境内拝領地340坪余過坪23坪9合御領地
当寺拝領地年代聢与相知不申。起立寛永庚午年より御年貢地二而壱万坪余先住所持仕罷在候処、慶安元子年神田寺町東叡山清水御門江引越申候時分、宗林寺・正運寺其外道等之御用地二被召上候時分、地割御奉行衆安藤右京之進殿松平出雲守殿江被仰達割余り之地二其侭被差置罷在然る処、其節之地面は表廿弐間裏行十八間二御座候。翌丑年御年礼申上梅花五葉松水仙花根〆献上仕大猷院様 厳有院様御代今年二至迠無懈怠相勤来り申候。此の花之儀は先年より為御加例今に献上仕候。尤由緒之義は往古
大猷院様御鷹狩之砌、御立寄被為有候節、梅花献上可致候様被仰聞候事与古来申伝二御座候間、今二毎年正月六日二献上仕候。
梅花五葉松水仙根〆献上之儀は慶安二丑年より御年礼申上候。
過坪御預ケ地二相成候年代は、安永四未年御役人松平伊賀守殿、御内山本字太夫殿、石野藤兵衛殿二御座候。
開山開基梅岩西堂和尚、承応二巳年五月十四日遷化。
本堂間口8間奥行6間。本尊釈迦如来坐像丈1尺1寸、木仏。
位牌堂、3間四方土蔵。
稲荷社、身体巻物。
以上丙戊書上。
梅花等献上の事。近き頃住持病気なりし時献せさりしかハ寺社奉行より尋あり。病気ならハ代僧を以て献上すへしとの事にて則献したりと云。捜索(御府内寺社備考より)
天龍院所蔵の文化財
- 木像地蔵菩薩立像(台東区有形文化財)
木像地蔵菩薩立像
地蔵菩薩は、釈迦がなくなってから、ずっとのちの世に弥勒菩薩があらわれるまでの間、つまり今の世で人々を救済するといわれている菩薩です。日本では、塞の神や道祖神の信仰と結びついて、道ばたの地蔵や塞の川原の地蔵などという形で親しまれています。髪をきれいに剃った僧形で、右手に錫杖、左手に宝珠を持った姿が、よく知られています。 天龍院の地蔵菩薩像は、正面を向いてまっすぐに立った立像です。像高は33.6cmという小さな姿ですが、とても細かい技法がみられます。像の衣の部分にほどこされている緻密な文様は、金泥(とともに、金箔を細く切ってはり、模様をつくる切金という技法を駆使して描かれたとても精巧なもので、製作者の技術の高さをうかがわせます。からだの部分には漆箔がはられ、眼は玉眼がはめこまれています。
像の底部には、次のように銘文があり、この像のつくられた年代がわかります。
「仏師大輔/絵師大輔/文明11己亥/二月三日/施主浄胤/□□□」
文明11年は西暦1479年、室町時代後期にあたります。制作年代の明らかな像としても貴重なものです。
この像が天龍院の所蔵になった経緯については、ほとんどわかりません。天龍院は、臨済宗妙心寺派の寺院で、寛永7年(1630)神田に創立、元禄14年(1701)に現在地に移転しました。
天龍院の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考
- 「下谷區史」