土気城主酒井氏之墓。千葉市緑区土気町にある旧跡・名所

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土気城主酒井氏之墓。千葉市緑区土気町にある旧跡・名所

土気城主酒井氏之墓の概要

土気城主酒井氏之墓は、千葉市緑区土気町にある名所旧跡です。土気城主酒井氏之墓は、白幡神社敷地そばに祀られていた石塔群で、「法華経一字一石塚」と彫られた石塔は寛政11年(1799)に建立されたといいます。昭和31年の戦災復興区画整理事業により、当所へ移され安置されています。また、境内の大師堂は、(弘法大師)八十八ヵ所廻りの番外札所としてかつては賑わったといいます。

土気城主酒井氏之墓
土気城主酒井氏之墓の概要
旧跡・名所名 土気城主酒井氏之墓
みどころ 旧跡
入場時間 -
入場料 -
住所 千葉市緑区土気町1000
備考 -




土気城主酒井氏之墓の縁起

土気城主酒井氏之墓は、長享2年(1488)に土気古城を再興して当地周辺を100年近く領有した酒井氏の墓所で、大小20基ほどの塚からなり、榧の大木が植えられた塚が、酒井家初代定隆公の墓とされます。酒井定隆は、土気・東金を拠点に領内七里四方の住民をすべて法華宗(日蓮宗)に改宗させた「七里法華」として著名で、大永2年(1522)に逝去、

境内掲示による土気城主酒井氏之墓について

由来記
土氣城主酒井氏は初代定隆公が主從四人と共に京都から関東に下り、古河の公方成氏に仕えたが、その後里見氏を訪れ、両総の境に当る中野に拠城し、民心の収撹につとめた。
長享二年(一四八八)には土氣を支配していた畠山重康の居城であった土氣古城を再興しここに移った。土氣古城を機会に深く信仰していた日泰上人を城下に招き領内に根本道場として如意宝珠山本寿寺を創建すると共に城の南にある真言宗の極楽法寺を日蓮宗に改宗して宝珠山善生寺に改め、又中野の砦に如意山本城寺を造り、領内七里四方の住民は全て、日蓮宗の信者になるよう厳命を下し、これがいわゆる「上総七里法華」である。中野城から土氣城に移って酒井氏五代約百年の居城となった。大永元年(一五二一)定隆公は家督を長子定治に譲り、定治の弟隆俊と共に東金田間城に移った。翌年四月二十四日東金城において八十八才で没した。遺骸は荼毘に附して土氣、東金の主客その正骨を分ち、東金においては本漸寺に、土氣においては城主定治城北のこの地に葬ったものであろう。
この墓所は城址の西北方約八百米で土氣北宿先つ縣神社道の左側、小高い所に位置し、酒井城主五代を含め、古墳約二十基がある。直径十五尺乃至二十五尺、高さ三尺乃至七尺、北側の小形のものは女人塚で「姫塚」と云われるが、数百年を経た今では長年月の風化のためにはっきりしない現況にあるが、ただ一本の榧の巨木が酒井氏墳墓の目じるしとなって、面影を伝えている。
「塚形は定隆のもの頂円坐方、玄治上円下方、胤治冠円袴方、康治上円下方」と土氣古城再興伝来記に記されている。又土氣古城の地にこの地方の首長である縣主が奉祀した氏神の伝わっていたものを現在(縣神社)の地に移して改宗し、本寿寺をもって別当とし、五代城主康治の時代狩野右京亮光信を召し描かしめた。
「右牛若、左弁慶」の絵馬(長さ一尺幅一尺五寸)
二面を奉納した。額面の表には
「縣大明神奉捧 判官之画像 右諸願成就如件
天正七年乙卯霜月二十七日酒井伯耆守康治敬白」と記されている。
昭和三十七年五月一日縣の重要文化財に指定された。
平成八年三月吉日土氣町内会(境内石碑より)


土気城主酒井氏之墓の周辺図