西光山源心寺|行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所
源心寺の概要
市川市香取にある浄土宗寺院の源心寺は、西光山と号します。源心寺は、永正年間(1504-21)この地に不動尊像を祀った安楽院という草庵の地に、浄土宗芝増上寺の中興観智国師が開山となり、慶長16年(1611)創建したといいます。観智国師は、源心寺以外にも、東小松川源法寺、蔵前榧寺などを開山した高僧です。また、開基は、観智国師の父(由木左衛門尉利重)と同じく八王子城で戦死した狩野一庵の子で、行徳に来住した狩野新右衛門(法名浄天、寛永6年1629年寂)といいます。行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所25番札所です。
山号 | 西光山 |
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院号 | - |
寺号 | 源心寺 |
住所 | 市川市香取1-16-26 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | 源心寺会館 |
備考 | 行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所25番 |
源心寺の縁起
源心寺は、永正年間(1504-21)この地に不動尊像を祀った安楽院という草庵の地に、浄土宗芝増上寺の中興観智国師が開山となり、慶長16年(1611)創建したといいます。観智国師は、源心寺以外にも、東小松川源法寺、蔵前榧寺などを開山した高僧です。また、開基は、観智国師の父(由木左衛門尉利重)と同じく八王子城で戦死した狩野一庵の子で、行徳に来住した狩野新右衛門(法名浄天、寛永6年1629年寂)といいます。
市川市教育委員会掲示による源心寺の縁起
西光山源心寺
永正年間(1504-21)この地に不動尊像を祀った安楽院という草庵が建てられていたといわれ、葛飾誌略には「安楽院地中なり、古き草庵にして、昔は今井金蔵寺末にて正念寺といふ。源心寺建立有りしより地中となれり」とあります。
この源心寺の開山は徳川家康の帰依を得た、浄土宗芝増上寺の中興観智国師で、国師の父は天正18年(1590)北条氏照の家臣として、八王子城で戦死した由木左衛門尉利重です。
当時同じ八王子城で戦死した狩野一庵の子、狩野新右衛門は行徳に来住し、観智国師の教化に服して私財を喜捨(寄附)し、慶長16年(1611)新たに堂宇を建立したのが、この源心寺なのです。
新右衛門は浄天と号し、荒地の開発を行い田畑を開墾し、村人に耕作をすすめましたが、このとき当代島の開発に当たっていた田中内匠と協力し、鎌ケ谷の囃水を水源にして南西に流れる大柏川から水路をとり、八幡の東部から行徳、南行徳を経て浦安に流れる大灌漑用水路の開削に当たりました。
この水路は内匠堀、または浄天堀といわれ、市川から浦安にかけての新田開発に、なくてはならぬ大切な用水路となったのです。
浄天は寛永6年(1629)3月他界しますが、浄天夫妻の墓石及び専誉受心(浄天の娘か)によって建てられた供養塔は、共に市の文化財に指定されています。
境内にある六地蔵は、その内の五体が専誉受心の寄進によるものであり、向かって左から二体目が浄天菩提のために、また右から二体目は専誉受心が逆修として建立したものです。(市川市教育委員会掲示より)
境内掲示による源心寺不動堂(旧安楽院)の縁起
永正年間(1504-1521)この地に不動尊像を祀った安楽院という小さな草庵が建てられていたといわれ葛飾誌略には「安楽院地中なり、古き草庵にして、源心寺建立有りしより地中となれり」とあります。
慶長16年(1611)源心寺境内に境内に護持され信仰者を見守ってきました。(境内掲示より)
「市川市内の寺院明細帳」による源心寺の縁起
古ハ称念寺ト云フ小寺ナリシカ北條氏政ノ舎弟氏照ノ家臣狩野一庵小田原落城后当地ニ移住主人其他ノ亡魂追善ノ為慶長十六年江戸芝増上寺普光観智国師江直願則源心寺ト改称創立ス国師日老後隠居寺ニ可定云々不杲国師ノ推挙ニ依リ東照君上総国東金町エ出狩ノ節当寺ニ立寄リ杖ノ先ヲ以テ朱印高六石ヲ賜リ御維新ノ際上知トナル(「市川市内の寺院明細帳」より)
「下総国旧事考」による源心寺の縁起
源心寺。
在関真間村。僧観智国師退院之地也。隷江増上寺。寺領六石、慶安二年己丑八月付。(「下総国旧事考」より)
源心寺所蔵の文化財
- 浄天夫妻の墓石(市川市指定文化財)
- 専誉受心建立の供養塔(市川市指定文化財)
源心寺の周辺図
参考資料
- 「市川市内の寺院明細帳」
- 「下総国旧事考」