普門山泉蔵寺|東葛印旛大師八十八ヶ所霊場、下総四郡八十八所霊場
泉蔵寺の概要
真言宗豊山派寺院の泉蔵寺は、普門山遍照院と号します。泉蔵寺は、安房栖神社と同じく元和6年(1620)の創建とされます。昭和50年本堂を新築、名称を大島田山泉蔵寺から普門山遍照院泉蔵寺と改めています。東葛印旛大師八十八ヶ所霊場49・74番、下総四郡八十八所霊場74番です。
山号 | 普門山 |
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院号 | 遍照院 |
寺号 | 泉蔵寺 |
住所 | 千葉県柏市大島田427 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
泉蔵寺の縁起
泉蔵寺は、安房栖神社と同じく元和6年(1620)の創建とされます。昭和50年本堂を新築、名称を大島田山泉蔵寺から普門山遍照院泉蔵寺と改めています。
「沼南町史」による泉蔵寺の縁起
当寺は、大島田地区で国道と県道とが交差する地点から、やや北側の県道沿いにみえる会堂風の近代的な洋式の本堂によって、その所在が知られている。
境内は国県道よりもかなり低い窪地であるが、元来は大島田地区のほぼ中心部に相当し、背後には細い道路を隔てて、地区の鎮守である安房栖神社と境域を接しており、往古における両者の密接な関係が示唆される。
当寺の創立や由緒は不詳であるが、大正末期ごろ、旧風早村役場で調査・記録した『寺院明細台帳』では、当寺は元和六(一六二〇)年三月の創立と明記される。この記載の根拠は不明であるが、あたかも『神社明細帳』に記載される安房栖神社の創立と等しい。事実ならば、両者は同時の創立ということになる。
ところが、当寺の世代は明治五(一八七二)年に第三十九世俊乗とあり、現在は不明ながら四十世は超えていようから、到底近世からの世代数とは考えられない。また、当寺は下総の豊山派としては屈指の古剃である清瀧院の末寺であるが、本町内で同じく清瀧院の末寺である鷲野谷の善龍寺・岩井の龍光院が、いずれも室町期の創立であることなどから推して、当寺の創立もまた中世に遡りうるものと推定される。ただし、当寺域からはいまだ中世の板碑や石造物が発見されてはいない。
最近まで存在した本堂(七間半×五間半)と庫裡(五間×四間)は同棟であったが、老朽のために解体され、寺有地を払い下げた資金などによって、昭和五十年三月に新堂宇が完成した。
新本堂は鉄筋コンクリート二階建による近代的なフラット型建築である。一階は倉庫、二階が本堂であるが、二階へは正面から広い階段(二十一段)を設け、階段の上には広い回廊が三方に繞り、高欄が付けられている。屋根は二層で、正方形の大きな第一層の屋根は、広い庇の部分が上方にそり返り、第二層目は本堂中央部の一段と高い平坦部分の上に、同様にそり返る。さらにその上に寄棟のような尖突部分を作り、その中央から空に向かって相輸が立ち、三重の宝輪を置く。内部は和装で、九尺幅の板敷部分と四十畳の大間が、いずれも左右通しの無柱で作られ、正面奥の内陣と両側各十畳の余間が付く。いずれも新しい意匠による近代的な様式である。戦後の洋式本堂としては、近隣で比較的早期に建てられた柏市逆井観音寺の本堂を雛型としたものである。
諸堂の大改築によって、当寺は従来の面白をまったく一新したので、これにちなみ、従来の大島田山泉蔵寺という名称を改め、新たに普門山遍照院泉蔵寺と号することとなった。なお、向かって左手の高台にある墓地内には、文政七(一八二四)年に創立された地蔵堂がある。(「沼南町史」より)
泉蔵寺の周辺図
参考資料
- 「沼南町史」