梅牛山宝光院|下総四郡八十八所霊場
宝光院の概要
真言宗豊山派寺院の宝光院は、梅牛山林泉寺と号します。宝光院の創建年代等は不詳ながら、江戸時代初期に松戸宿設置に伴い当地へ移転、元禄年間(1688-1704)に(法流)開山、明治初年まで御嶽社(松戸神社)や秋葉社・宮田稲荷の別当を務め、四国八十八ヵ所御砂踏み霊場は参拝客でにぎわったといいます。東三十三所観音霊場12番、下総四郡八十八所霊場54番札所です。
山号 | 梅牛山 |
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院号 | 宝光院 |
寺号 | 林泉寺 |
住所 | 松戸市松戸1842 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宝光院の縁起
宝光院の創建年代等は不詳ながら、江戸時代初期に松戸宿設置に伴い当地へ移転、元禄年間(1688-1704)に(法流)開山、明治初年まで御嶽社(松戸神社)や秋葉社・宮田稲荷の別当を務め、四国八十八ヵ所御砂踏み霊場は参拝客でにぎわったといいます。
「松戸のお寺」による宝光院の縁起
真言宗豊山派梅牛山寶光院
山号は梅牛山、寺号は林泉寺、ご本尊は不動明王尊です。脇侍として十一面観音(松戸神社祭神の本地仏)と子安不動尊(市内竹ヶ花・三辰堂のご本尊)を奉安しています。江戸時代はじめに松戸宿が開かれたことにより現在地に移り、明治初年まで別当として御嶽社(祭神は蔵王権現。現在の松戸神社)・秋葉社・宮田稲荷を護持。当山で出家し住職となった高城義海大僧正は、のちに東京護国寺・奈良長谷寺および室生寺の住職を歴任した幕末から明治期を代表する高僧です。
境内には、幕末の三剣客の一人であり北辰一刀流の開祖となった千葉周作・定吉兄弟の実父えある千葉忠左衛門と、千葉兄弟の剣術の師匠であり周作の養父となった浅利又七郎の墓があります。若き日の兄弟は当山の門前で暮らしながら鍛錬を重ね、のちに江戸神田お玉ヶ池に開いた道場からは清河八郎・山岡鉄舟・坂本竜馬などの逸材を輩出しました。
平成二十二年、境内に「松戸四国八十八ヵ所弘法大師霊場」(お砂踏み霊場)を再興し、毎年5月の第三土曜日には大般若経転読・護摩供法要を修行し、有縁の人々や地域社会の安寧・発展を祈念しています。(「松戸市史料 第4集 松戸町誌・小金町誌」より)
「松戸のお寺」による宝光院の縁起
宝光院
松戸町二丁目ニ在リ。真言宗ニシテ大谷口村大勝院ノ末寺ナリ。梅牛山ト号シ不動明王ヲ本尊トス。元禄年間ノ開山ニシテ、現住職ハ大僧都小野塚与澄氏ナリ。堂宇間口四間・奥行三間・庫裡間口三間・奥行三間半、境内ニハ弘法大師ノ石像ヲ安置セル大師堂アリ。新四国八十八所ノ順拝所ニシテ賽客甚多シ。(「松戸市史料 第4集 松戸町誌・小金町誌」より)
宝光院所蔵の文化財
- 千葉周作居宅跡・浅利道場跡・浦山寿貞墓所
- 水上尚の墓
千葉周作居宅跡・浅利道場跡・浦山寿貞墓所
幕末の剣豪、千葉周作は文化六年(一八〇九年)十五歳の時一家で陸前国(岩手県)荒谷村から松戸宿に転居、馬医者を営む父の忠左衛門(幸右衛門)は裏山寿貞(うらやまじゅてい)と称してこの参道付近に開業します。また、幼時から剣術に長けた周作が入門した浅利又七郎の道場が、宝光院と善照寺の間にあったと言われています。
周作は又七郎の下で才能を開花、二十三歳で又七郎の師江戸の中西忠兵衛に入門し、数年の後には免許皆伝を許されます。のちに又七郎の娘婿となり道場の後継者として期待されますが、流儀に対する考えの違いから免許を返上、離縁してしまいます。
修行の旅に出た周作は「北辰一刀流」を編み出し、神田に「玄武館」を開きます。周作の合理的な剣法は評判を集め多くの門弟を輩出するに至りました。
浅利道場の建物は現存しませんが、宝光院境内に又七郎の供養碑がまつられています。
周作の父、浦山寿貞は天保二年(一八三一年)に没、その墓所もこの境内にあります。(境内掲示より)
宝光院の周辺図
参考資料
- 「松戸のお寺」
- 「松戸市史料 第4集 松戸町誌・小金町誌」