宗徳寺|佐倉市臼井台にある曹洞宗寺院

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長谷山宗徳寺|生実城主原四郎胤高が開基、天正3年臼井に移転

宗徳寺の概要

佐倉市臼井台にある曹洞宗寺院の宗徳寺は、長谷山と号します。宗徳寺は、千葉郡生実城主原四郎胤高が、金ケ崎永徳寺の志賢和尚を開山に迎えて応永3年(1396)北生実柏原に創建、報恩山宗徳寺と号していたといいます。天正2年(1574)堂宇焼失したこともあり、翌3年(1575)原四郎胤高が臼井に本拠を移した際、臼井の長谷谷津にあった長谷山竜雲寺を吸収する形で、当寺も臼井へ移して再建、長谷山宗徳寺と改号しています。累代原氏の菩提所となっていましたが、豊臣秀吉の小田原北條攻めに際して天正18年(1590)原氏は滅亡、徳川家康の関東入国後翌年の天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を受領していました。江戸期には末寺10ヶ寺を擁し、曹洞宗大本山(総持寺)住職を輪番で勤める輪番地でした。六崎組十善講八十八ヶ所25番、うすい花の寺八ヶ寺の「紫陽花の寺」です。

宗徳寺
宗徳寺の概要
山号 長谷山
院号 -
寺号 宗徳寺
住所 佐倉市臼井台1277-1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



宗徳寺の縁起

宗徳寺は、千葉郡生実城主原四郎胤高が、金ケ崎永徳寺の志賢和尚を開山に迎えて応永3年(1396)北生実柏原に創建、報恩山宗徳寺と号していたといいます。天正2年(1574)堂宇焼失したこともあり、翌3年(1575)原四郎胤高が臼井に本拠を移した際、臼井の長谷谷津にあった長谷山竜雲寺を吸収する形で、当寺も臼井へ移して再建、長谷山宗徳寺と改号しています。累代原氏の菩提所となっていましたが、豊臣秀吉の小田原北條攻めに際して天正18年(1590)原氏は滅亡、徳川家康の関東入国後翌年の天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を受領していました。江戸期には末寺10ヶ寺を擁し、曹洞宗大本山(総持寺)住職を輪番で勤める輪番地でした。

境内石碑による宗徳寺の縁起

胤高公、千葉市生實在ニ當山ヲ創建、志賢和尚ヲ開山に拝請、天正二年(一五七四)不幸堂宇焼失、天正三年(一五七五年)城主胤榮公、臼井城主ニ所替、依テ當山モ臼井ニ再建サレ今日ニ至ル。六世授巌和尚ノ時ナリ、毎歳原家ヨリ茶湯料廿石ヲ寄進サル。世々原家ノ菩提所タリ、亦徳川家ヨリ、毎歳禄十石ノ御朱印拝領、往昔、當山ハ大本山ニ昇住ヲ許サレタル、輪番地ニシテ、昇住セラレシ和尚ニ總白、圓芝、黙要、見龍、要山、弘學ノ六禅師アリ(境内石碑より)

「佐倉市史」による宗徳寺の縁起

宗徳寺(臼井台町)
永徳寺末であった。本尊は観世音菩薩。町内曹洞禅寺は前記の勝胤寺と臼井城主原氏の菩提寺である宗徳寺が禅宗の教勢拡大上、意義深い存在である。宗徳寺はもともと千葉の生実にあったものを臼井に移したものである。それは、応永三(一三九六)年、千葉郡生実城主原胤高が、小弓郷柏崎の地に、陸奥国胆沢郡永徳寺の志賢和尚を迎え開山としたのが創立であるとしている。胤高の裔の胤栄が天正三年これを臼井に移したのであるが、この移転について千葉大系図には
胤定-胤清-胤栄
〔胤定〕上総国山辺郡小西城に居る。天文六年十月、小弓御所源義明没落シ、胤定小弓城主トナル、弘治三年十月、下総国臼井本城ニ移ル、嫡子胤清ハ小弓城ニ居ラシム、天正三年、胤定小西城ニ移リ、胤栄ヲ臼井城ニ居ラシム。
〔胤清〕小弓城ニ居ル(父に先だちて早世)。
〔胤栄〕天正三年臼井城ニ移ル、此時、宗徳寺ヲ臼井野口ニ移ス、之ヲ建立シテ長谷山宗徳寺ト号ス、時ニ、住持授鑑和尚也。
とある。右のように移建したが、当寺は初めの土地は台町の長谷谷津であった。その位置は臼井台町と上座との間にある手操橋に面する方に、臼井城の出城(附城という)があったが、その近くの長谷谷津に面したところにあったことが「天正五年・臼井郷図」に”宗徳寺古ヤシキ”と記入してある。ここには既に末寺の長谷山竜雲寺があったのでこれを併合して、寺号を長谷山宗徳寺と称するようになった(小弓にあった時は報恩山宗徳寺)。毎年臼井城主の原氏より茶湯料として二〇石の寄進があり、累代原氏の菩提所であった。原氏の滅亡後、天正十九年十一月、その由緒によって朱印十石を附せられた。当寺に安置する原家の位牌には次のものがある。
〇広徳院殿報思祐盛大居士 応永卅二年十一月十五日生実柏崎城主原四郎平胤高原氏之祖
〇竜雲院殿弘岳大宗大居士 天正十九年壬午四月六日従五位式部大輔胤栄臼井城主
〇大賢院殿震嶽道雄大居士 天正十八年庚寅六月十八日江府に被召切腹 胤栄長男刑部大輔胤義
次に、当寺には左の十ケ寺の末寺があった。
宗胤寺(千葉)海蔵寺(寒川)宝成寺(栗原)福寿院(川戸)万福寺(吉見) 高徳寺(千葉)満蔵寺(寒川)千手院(矢作)東禅寺(千葉)仁守庵(仁戸名)(「佐倉市史」より)

「稿本千葉縣史」による宗徳寺の縁起

長谷山宗徳寺
同町(印旛郡舊印旛郡臼井町)大字臼井臺町字寺前に在り、境内八百九十九坪、曹洞宗なり、應永中原胤高(四郎)千葉郡北生實郡柏崎に創建し報恩山と號す、陸奥郡膽澤郡永徳寺僧志賢(聖山)を以て開山となす、志賢永享元年五月二十八日寂す。胤高應永三十三年十一月十五日卒し、法號を廣徳院報恩祐盛と云、天正三年胤高七世の孫胤榮今の地に移し、同十九年十一月徳川氏寺領十石を付す、境内胤榮の墓あり、本堂に胤榮及び子胤義の神主を安じ、又原氏の系譜を蔵す。(「稿本千葉縣史」より)

「印旛郡誌」による宗徳寺の縁起

宗徳寺
臼井臺町字寺前にあり本寺永徳寺末にして曹洞宗に屬す寺は舊と千葉郡小弓郷柏崎にあり應永三年小弓の城主原四郎胤高の創立する所なり陸奥國膽澤郡永徳寺の二世臣海の嗣聖山志賢和尚を招請して開山となす胤高の七世の孫胤榮小弓臼井の兩城主たるに及び天正三年之を臼井の地に移す當時臺町長谷津の地に在りし長谷山龍雲寺と稱する末寺を併合し山號を改めて長谷山となす(小弓に在る時報恩山宗徳寺と稱す)堂上胤榮以下原氏累代の神主を安置す又舎利塔一基あり胤榮の守持せし所なりと云ふ天正十九年十一月徳川家康田猟して此地に来り駕を此處に寄せ滯留數日寺領十石を寄附す當時寺派深林幽谷の中にあり境内廣濶巨樹鬱蒼として寺域を繞り里俗之を日蔭寺と呼ぶ清井あり權現水と云ふ家康の厨膳に供せしを以てなり後将軍秀忠も又駕を此處に寄せしと云ふ天明二年十一月廿一世周哲遷化し至道孝淳遺命を以て矢作の千手院より入りて廿二世の法席を繼ぐ翌三年三月十五日厨庫火を失し延焼四面に及び堂宇總べて烏有に歸し餘す所唯總門と鐘樓門とのみ是に於て資を募り再建を企て六年正月工を起し明年三月を以て竣成す然れども遂に舊時の壮觀に及ばずと云ふ寛政中原氏の一族岡田元繁なるもの来りて寺内に寓し原氏家譜を撰す中云ふあり曰く
天正十八年庚寅夏豊臣秀吉欲攻氏政圍小田原城胤榮居此堅守拒之勢微不及力遂敗續而潜出臼井城入生實城殘黨不全臼井城遂落時仝年五月十八日也爾後小田原城沒落遺兵攻胤榮既而胤榮對陣于同國野田原無攻遂戰死野田原矣軍散後殘黨収遺骸埋路傍(至今十文字原有古墳里民吟云原氏之塚矣)後一族於于臼井宗徳寺立碑石法名弘岳太宗居士天正十八年庚寅十二月六日也
然れども原氏の碑石遂に存することなし(櫻風土記亦胤榮の墓の宗徳寺にあることを記せり)文化年中臼井田町と田九石餘を爭ふのことあり是より寺産漸く減ずと云ふ第二十八世弘學和尚輪番を以て能本山に住持たり天保年中禁闕に参内して勅旨を蒙るの榮を得御綸旨に曰く
總持寺住職事應 勅請宣奉祈國家安全 寶祚長久者 天氣執達如件
天保十三年三月十六日
右中辨 俊克 花押
萬福寺弘學和尚禅室
維新の初寺領悉く返上となり境内亦多く官に収められ幽邃閑雅なりし日蔭寺の名も知る人鮮きに至れり十ヶ寺の末寺あり曰く
宗胤寺(千葉)海蔵寺(寒川)寶成寺(栗原)福寿院(川戸)萬福寺(飯郷) 高徳寺(千葉)満蔵寺(寒川)千手院(矢作)東禅寺(千葉)仁守庵(仁戸名)
今堂宇間口七間半奥行六間山門九尺四面境内一千百八十七坪(官有地第四種)住職を谷麟陽とし檀徒四十四人管轄廳まで四里十八町なり(寺院明細郷土誌帳)
〇(下總國舊事考云)宗徳寺舊號龍雲寺在臼井村應永中原四郎胤高創建舊在北小弓柏崎地天正三年原胤榮合龍雲寺爲一寺僧聖山志賢所開也城中有胤榮原有甘泉隷陸奥膽澤郡永徳寺寺領十石(天正十九年辛卯十一月)
〇(新撰佐倉風土記云)在臼井臺町應永年中原四郎胤高建立舊千葉郡小弓柏崎以陸奥國膽澤郡永徳寺二世巨海之法嗣志賢和尚爲開山天正三年原胤榮移之臼井原氏乃千葉長臣爲小弓臼井二城主堂上有原氏父子木主弘岳太宗大居士當山開基臼井城主從五位下原式部大輔平胤榮天正十八庚寅六月六日卒震嶽道雄大居士胤榮嫡子從五位下原刑部大輔胤義天正十八庚寅六月十八日卒東學千譽大居士胤榮次男三州岡崎城主從五位下原隠岐守勝胤慶長五庚子十月朔日卒舊風土記成田参詣記俱載有平胤榮墓當時城中事明治壬午之春予與同志訪臼井舊跡先至宗徳寺間以平胤榮墓住僧曰無之予憮然徒閲原氏之靈位牌而去又有甘泉曰權現水
〇(日本名勝地誌云)宗徳寺は長谷山と號す臼井臺町に在り應永年間原四郎胤高の創建せし所にして舊千葉郡北生實柏崎の地に在り報恩山と號せしが天正三年胤高七世の孫式部大輔胤榮生實臼井の兩城を兼有するに及び此地の長谷山龍雲寺に併せて今の寺號とし陸奥(今の陸中)膽澤郡永徳寺二世の僧巨海の法弟聖山志賢和尚を聘して開山たらしめ今尚曹洞宗にして永徳寺の末派に屬す本尊は般若船觀音にして之を本堂に安し且堂内に胤榮等の靈牌を置き城中に墳墓墓を存せり里老云ふ往時此寺深林蓊鬱の中に在りしを以て俗に日蔭寺と呼べり寺内に權現水と稱する甘泉あり慶長年間東照權現(徳川家康)此地に狩獵の時偶々其の甘泉を喫して京都の柳の水に似たりとし後屡々之を命じて喫茶の料に充てたり因て其の名を有せりと云々
〇(成田参詣記云)長谷山宗徳寺は臼井臺町に在り寺領拾石(天正十九年辛卯十一月)禅宗曹洞陸奥の永徳寺末なり本尊は般若船觀音寺の傳は應永の昔原四郎胤高と云ふ者の建る所なり元は千葉郡北小弓柏崎の地にあり報恩山と號せしも天正三年胤高七世の孫式部大輔胤榮小弓臼井の兩城を兼併せしをり此の地の長谷山龍雲寺と云寺を合せて今の寺號とす陸奥膽澤郡永徳寺二世巨海の法嗣聖山志賢和尚を請ひて開山たらしむ(永享元年己酉五月廿八日寂)堂上に胤榮(天正十年丙午四月六日卒法號龍雲院殿弘岳太宗大居士)の子胤義の神主を安す(天正十八年庚寅六月十八日卒法號大賢院殿雲嶽道雄大禅定門)又原氏の家系を蔵す城中原胤榮の墓あり所蔵の古劔長八寸五分柄に月山と刻す(「印旛郡誌」より)


宗徳寺の周辺図


参考資料

  • 「佐倉市史」
  • 「稿本千葉縣史」
  • 「印旛郡誌」