正覚院|吉橋大師八十八所霊場、八千代八福神の毘沙門天
正覚院の概要
八千代市村上にある真言宗豊山派寺院の正覚院は、池證山鴨鴛寺と号します。正覚院は、清和天皇代(858-876)に釈迦如来の頭部が印旛郡へ飛来、智證大師が印旛郡へ来て体部を作り仏像を完成させたと伝えられ、保元年間(1156-1159)頃に平入道眞圓が当地を領有していた時、鴛の死から物のあわれを感じ一寺を建立、池證山鴨鴛寺と号したと伝えられます。当寺は当初保品にあったとされ、当地へ移転した時期については不詳ながら、室町時代には武士館だったとされる当地へ移転しています。釈迦堂の釈迦如来像は鎌倉時代後期の作と推定され千葉県有形文化財に、釈迦堂は八千代市文化財にそれぞれ指定されています。釈迦堂に安置される毘沙門天は八千代八福神の毘沙門天、大師堂は、吉橋大師八十八所霊場74番です。
山号 | 池證山 |
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院号 | 正覚院 |
寺号 | 鴨鴛寺 |
住所 | 八千代市村上1530-1 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正覚院の縁起
正覚院は、清和天皇代(858-876)に釈迦如来の頭部が印旛郡へ飛来、智證大師が印旛郡へ来て体部を作り仏像を完成させたと伝えられ、保元年間(1156-1159)頃に平入道眞圓が当地を領有していた時、鴛の死から物のあわれを感じ一寺を建立、池證山鴨鴛寺と号したと伝えられます。当寺は当初保品にあったとされ、当地へ移転した時期については不詳ながら、室町時代には武士館だったとされる当地へ移転しています。江戸期には、宝喜作不動堂・村上地蔵堂を有し、正東院(現宝喜作子神神社地)・阿弥陀寺・蓮蔵院を末寺として擁していました。釈迦堂の釈迦如来像は鎌倉時代後期の作と推定され千葉県有形文化財に、釈迦堂は八千代市文化財にそれぞれ指定されています。
パンフレット「八千代の歴史遺産散歩」による正覚院の縁起
池證山鴨鴛寺正覚院
門前の厳島神社は池をめぐらせた中之島に建ち、別名片葉の弁天とも呼ばれていて、寺創建に因むおしどり伝説がある。正覚院は、室町時代の武士の館跡に建立された真言宗豊山派の古刹で、清凉寺式釈迦如来立像(県指定文化財)を安置する釈迦堂(市指定文化財)、裏山の墓地には市内最古の宝篋印塔(応永18年1411、市指定文化財)、十五夜月待り塔、おしどり丸彫り手水鉢、古い出羽三山碑、館跡の土塁・空堀などがある。八福神の毘沙門天が庭に祀られているが、木造毘沙門天は釈迦堂内に祀られている。近くには平成27年(2015)にオープンした市立中央図書館、市民ギャラリーがある。(パンフレット「八千代の歴史遺産散歩」より)
「八千代市史」による正覚院の縁起
正覚院
新義真言宗。村上村字寺内に所在。池證山と号す。「新義十五』には醍醐三宝院末寺の千手院末寺一八か寺中に「正覚院」とあり、自らは門徒寺として村上村正東院・同村阿弥陀寺・同村蓮蔵院を配下としている旨記されている。貞福寺と同じく小本寺であった。享保七年(一七二二)に著された「佐倉風土記』には「鴛鴦寺」と記されているが、これは有名な通称で記したものであろう。延享三年(一七四六)の村明細帳(『資料編近世I』〔五〕)によれば境内は一反九畝六歩、境内に釈迦堂があり、境内山が五反五畝六歩もあった。さらに田ニ反三歩と畑八畝一六歩を有しており、これは年貢免除地であった。また村内の不動堂と地蔵堂は当寺の「支配」であった。寺中の釈迦堂が、江戸時代の延宝二年(一六七四)に潤色(彩色直し)をした旨の銘札が胎内に篭められていた。また本尊の大日如来像は寛文九年(一六六九)に村内の有力檀家が施主として奉納したものである。清涼寺式釈迦如来像は鎌倉時代の造立と推定される有名な像である。(「八千代市史」より)
「印旛郡誌」による正覚院の縁起
正覚院
村上村字寺内にあり鴨鴛寺と稱し千手院末にして眞言宗たり本尊は大日如来由緒不詳堂宇間口八間奥行六間三尺境内三千二百八十三坪(官有地第一種)あり住職は福山宥清にして檀徒百二十九人あり管轄廳まで四里十八町なり境内佛堂五宇あり即
一、釋迦堂 本尊釋迦如来を安置す立像厨子入にして高さ丈餘に達し我國三体の釋迦佛なりと云ひ傳へて頗偉大なり毎年四月八日の誕生會には賽客四方より参集す建物間口六間奥行六間
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口四尺奥行三尺
三、大師堂 本尊仝由緒仝建物仝
四、大師堂 本尊仝由緒仝建物仝
五、大師堂 本尊仝由緒仝建物仝(寺院明細帳郷土誌)
〇舊佐倉風土記云
在村上村傳清和帝御宇木佛首浮印旛江人擧而安保品村釋智澄有夢之咸此来見佛首與夢符合因欲刻下体全之有化童助彫功畢自言毘首羯摩天而去矣保元中平入道眞圓爲鴨鴛建寺以此像爲本尊天文五年平胤廣再興焉
(川島家所蔵縁起云)
下總國葛飾郡千葉庄池證山鴨鴛寺の本尊は人王五十六代清和天皇の御時如来の御首印旛のうらに下る其ころ智證大師れいむをかふむり玉ふこと度々なり金色の如来智證にむかひてのたまはく我は是毘首羯摩天のつくる所の釋迦なりしかるにあめかしたの内に佛法はんじやうのところをみるに日本にすきたるはなし故に本朝にとびきたり末世の衆生をみちびかんとおもふなり汝は顯密の學超内外共に達者にしてしかも佛像をつくるにもつともたくみなり吾身形をつくりたすべしといふ智証これよりあつま地にくたり此ところにつきたまひ靈夢のみくしをたつねたまへは里人有てふりくだりたまふ所の尊面を智證に授く夢中に御對面の如来と少もたかひなし是によつて是を修理せんと思ひ威儀を調へ道場に入三寶をうやまひ諸天にいのりすでに小刀をとらんとしたまふ時に童子一人こつぜんとして道場に入来る智證童子を見ていはくなんぢは何國よりか来るいはく我はこれ佛工なり師の志ふかきを感じ力を加へんとおもひいま此所にきたるなりと云智證よろこびをなし相ともにこれをきざむ佛像ほどなく出来しおはるときに童子にいはく我は是毘首羯摩天なりいまつくる所の佛像はむかし天ぢくにおゐて優填王われに命して世尊の妙相をうつさしむときにまづ心みに此御首をきさむ日来の宿意をおきぬはんためにいま師とともにこれを満足と云おはつて化しさりぬ竊にかかへみるに其はしめにつくるとはこのみくしその終りに作る所の佛像は嵯峨野釋迦なりそのかみ此本尊は保科むらにありしを保元年中の頃平の入道眞圓といふ人當寺を建立してうつして本尊とすいまに至て五百二拾有七年なり又鴨鴛寺といふことはかの入道つねづね殺生をすきこのむ或時にあそ沼にてひとつの鴨鳥を射殺し餌袋に入て歸るその夜丹顔美麗なる女子一人これへるいろをしてつげていはくけふ吾夫をころしたまふと云入道こたへて云我かつておぼへず女云まことに偽りたまふましとなを入道あらそひたまへりければ
日くるれは誘ひしものをあそぬまの
まこもかくれのひとり寝そふき
ゑいしてかくるを見れば鴛の雌なり入道あはれにおもひ夜あけて見ればきのふの鴛と嘴をあはせて死にけりかかる鳥類まであひしふれんぼのみちふかしいかなれば人界に生をうけ物のあはれをおもはざらんと生死無常の定めなきことを思ひ發心出家して遁世の門に入池のほとりに草庵をむすひ池證山鴨鴛寺と號す夫よりとしゆき月はかり三百年の星霜を經て天文十五年に源太郎平胤廣と云人鎌倉の佛師大内蔵卿長盛をやとひさかうしおわるいまに至て百三拾余年也堂塔破損して兩佛身をあらふこれによつて尊像たいはして見るにしのびずしかるゆへに當村の男女並に武州江戸の住人力をあはせ志ざしをおなしくして京五條の佛師田村式部卿をまねき是を興隆したてまつる夫泥水素像は淺識の人の爲にもつとも大因縁たりこれをしゆし是を行しすなはち罪をけし福をます又これ成等正覺のもとひなり
延寶貮甲寅霜月吉祥日
池證山鴨鴛寺正覺院住寺日運法印(「印旛郡誌」より)
正覚院の縁起
- 木造釈迦如来立像(千葉県指定有形文化財)
- 正覚院釈迦堂附厨子(八千代市指定民俗文化財)
- 宝篋印塔(八千代市指定文化財)
木造釈迦如来立像
像の高さは一・六六メートルでカヤの木の寄木造りで、頭と体は前後二材をつなぎ合わせ、首や手首が差し込まれています。
頭部は螺髪ではなく渦を巻く縄の様な頭髪で、全身を覆う衲衣の襞が、首から下へ同心円状に広がるのが特徴的な像です。
生身の釈迦の姿を写したといわれる像で、日本では京都嵯峨野の清凉寺に初めて伝えられたことから、清凉寺式と呼ばれています。正覚院の像は、鎌倉時代後期の作と考えられ、眼・白毫・肉髻珠に水晶を嵌め、衣には截金とよばれる細かい紋様が施されています。また、胎内から、天文十五(一五四六)年と延宝二年の修理銘札や木造舎利塔などの納入物がみつかっています。
昭和五十三年に解体修理が行われ、欠損していた白毫や指などが補填されました。延宝二年の修理の際にまとめられた縁起には、この像の由来や寺の創建、その後の修理などについて記されています。
秘仏のため、四月の花祭り(灌仏会)の日にのみ公開されます。(八千代市教育委員会掲示より)
正覚院釈迦堂附厨子
木造釈迦如来立像が安置されている和様の仏堂です。寄棟造りの三間堂で、向拝が一間付きます。元々は茅葺の堂で、昭和初期に鉄板葺きの屋根になりましたが、昭和五十三年に修理が行われ、木材の腐食部分の補修などとともに、現在の銅板葺の屋根に改修されています。堂の柱は円柱で、上には組物を付けています。柱と柱の間には蟇股という装飾を付け、向拝の柱の木鼻には獅子や象の彫刻がつきます。軒には垂木が二重に配られます。壁は板壁で、周りには高欄のついた縁が巡ります。
堂内は内陣と外陣に区切られ、内陣の奥には木造釈迦如来立像を安置するための厨子が置かれています。この厨子の扉には施主の名前と、延宝二(一六七四)年の墨書銘があります。施主として地元以外にも、江戸の人の名前も書かれています。寺の縁起や建築様式から、釈迦堂も厨子と同じ延宝の頃に建築されたと考えられます。(八千代市教育委員会掲示より)
正覚院の周辺図
参考資料
- 「八千代市史」
- 「印旛郡誌」