平河天満宮|千代田区平河町の神社

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平河天満宮|江戸平河城主太田道灌公が城内に守護神として創祀

平河天満宮の概要

平河天満宮は、千代田区平河町にある神社です。平河天満宮は、江戸平河城主太田道灌公が城内の北坂梅林坂上に文明10年(1478)江戸の守護神として創祀、慶長12年(1607)二代将軍秀忠の命で当地に遷座したといいます。東都七福神の一つです。

平河天満宮
平河天満宮の概要
社号 平河天満宮
祭神 菅原道真公
相殿 誉田別命(八幡宮)、徳川家康公(東照宮)
境内社 平河稲荷神社、三殿宮(大鷲神社、塩神社、浅間神社)
住所 千代田区平河町1-7-5
備考 -



平河天満宮の縁起

平河天満宮は、江戸平河城主太田道灌公が城内の北坂梅林坂上に文明10年(1478)江戸の守護神として創祀、慶長12年(1607)二代将軍秀忠の命で当地に遷座したといいます。

境内掲示による平河天満宮の縁起

江戸平河城主太田道灌公が城内の北坂梅林坂上に文明10年(1478)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)。
慶長12年(1607)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。
徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に拝謁できる格式の待遇を受けていた。また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
現在も学問特に医学芸能商売繁盛等の信仰篤く合格の祈願客も多い。(平河天満宮境内掲示より)

東京都神社名鑑による平河天満宮の縁起

その昔、江戸平河城主太田道灌が菅公に親しく面接の夢を見た翌朝、突然に菅公自筆の画像を贈られ、霊夢と深く感激、城内北畔に文明十年(一四七八)六月二十五日創祀された神社(萬里居士の『梅花無尽蔵』に詳記されている)。太田道灌没後天正十八年(一五九〇)徳川家康が江戸城に入城、本丸修築のため平河門外に奉遷。さらに慶長十二年(一六〇七)将軍秀忠は江戸城増築にさいし本社を現在の地に奉遷、地名を神社にちなみ平河町と名付けた。宮城に一番近い神社と多く信仰を集めたが、火災による十数度の類焼の難をこうむった。大正十二年の大震災には一宇残さず烏有に帰した。(東京都神社名鑑より)


平河天満宮所蔵の文化財

  • 平河天満宮銅鳥居(千代田区指定文化財)
  • 平河天満宮狛犬(千代田区指定文化財)
  • 平河天満宮力石(千代田区指定文化財)
  • 石牛一基(千代田区指定文化財)

平河天満宮銅鳥居

この銅鳥居は、高さ5mに及ぶ鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保15年(1844)12月に、麹町周辺の人々によって建設・奉納されたものと思われます。千代田区内には現在沢山の特徴的な鳥居が建てられていますが、この銅鳥居が、区内最古の鳥居です。
同様に銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。「西村和泉」というのは、「文政年鑑」に「御鋳物師 西村和泉 並御錺師かんたかち丁1丁メ」とあるように、元禄から明治期まで12代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢等々多くの作品を残しました。彼ら12人の当主のうち多くは「西村和泉藤原政時」を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1847)に没した八代目であると思われます。
なお新宿区市谷八幡町には、「平河天満宮銅鳥居」によく似た「市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居」(新宿区指定文化財)がありmす。これは「西村和泉」家5代目当主・西村和泉藤原政平によって作られた作品です。ただし、平河天満宮の銅鳥居には、左右の台座部分に4体づつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかってきます。
平河天満宮の銅鳥居は、麹町周辺の町地に住む人々の平河天満宮への信仰の様子を物語ると同時に、江戸時代の鳥居の姿を私たちに教え、その特徴的な意匠で私たちを楽しませてくれます。(千代田区教育委員会掲示より)

平河天満宮狛犬

本殿向かって右側の石像の銘文によれば、この狛犬は、享和元年(1801)に麹町周辺の人々によって奉納され、嘉永5年(1852)に再建されたことがわかります。一方左側にも銘文が刻まれていますが、現在では剥離していてほとんど読むことができません。ただし「新撰東京名所図会」(第18編)には、この銘文が収録されています。これによると、先代の狛犬がこわれてしまい、あらたに紫宸殿の障屏画をもとに狛犬がつくられ、これが嘉永3年(1850)の火災で角や足を失い、同5年にこれらを補修して再設置した、とのことです。
「新撰東京名所図会」にある紫宸殿の障屏画とは、一般に「紫宸殿賢聖障子」といわれるものであると思われます。「賢聖」とは徳のある人物のことで、中国では紀元前2世紀ころから功臣たちを書き並べるこの「賢聖」の図が描かれはじめます。この賢聖達の中央に魔除けとして通例描かれているのが、一対の「獅子」と「狛犬」です。日本でも平安時代には賢聖障子が御所の紫宸殿に描かれるようになりました。紫宸殿賢聖障子に描かれている獅子と狛犬のうち、狛犬は頭上に角をもっています。平河天満宮の狛犬を見ると、左側の石像の頭上には、径10cm、深さ5cmほどの窪みができています。これは角が掛け落ちた跡のようです。平河天満宮の狛犬は、そのモデルを考えた場合、厳密にいえば「獅子」(右側)と「狛犬」(左側)との対になっているといえます。
平河天満宮の狛犬は、そのユニークな出自で私たちの興味をひきつつ、麹町周辺に暮らす人々の平河八幡宮への信仰の証として今日もその境内に佇んでいます。(千代田区教育委員会)

平河天満宮力石

「力石」とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会所や村堺(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されています。
古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多く、石に神霊がこもる、あるいは石を依代としている神々も多いとされています。
また「力石」における伝承のひとつとして、「道切」説もありますが、「巨人伝説の大草鞋」などと同種のものと考えられます。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い(まじない)等であったようです。(疫病は道を伝ってくると信じられていました)。
平河八幡宮の力石の由来は詳らかではありませんが、江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。
なお、本力石の表面には、中央に「天龍石」、右端に「十店助次郎持之」、左端に「同新助」と刻まれています。(千代田区教育委員会)

石牛一基

この石牛は、浄瑠璃常盤津節の岸沢右和佐の麹町の門弟らによって奉納されたもので、奉納された嘉永五年(一八五二)は、祭神である菅原道真公の九百五十年忌にあたっています。江戸市中の天満宮では開帳が行われており、平河天満宮でも二月二十五日から六十日間にわたって催されています。
この開帳にあわせて、氏子たちは、石牛のほかにも境内の石造物(狛犬・筆塚・百度石。常夜燈)を奉納しています。
平河天満宮には、氏子町の人々による信仰、ならびに氏子地域を越えた学業成就の信仰に基づく奉納物が数多く見られます。その中で、石牛は、常盤津節の一流派である岸沢派の門弟らによって造立・奉納されたものであり、区内における学芸の拡がり及び天神社に対する信仰の様子を物語る資料といえます。(千代田区教育委員会掲示より)


平河天満宮の周辺図