草分稲荷社|江戸時代に板倉主計頭の邸内神として創建
草分稲荷社の概要
草分稲荷社は、千代田区神田佐久間町にある稲荷神社です。草分稲荷社は、江戸時代に板倉主計頭の邸内神として創建、明治維新後には町内有志により維持されてきたものの、昭和36年に佐久間公園東北隅に遷座したといいます。
社号 | 草分稲荷社 |
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祭神 | 宇迦之御魂命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 二月初午に近い土曜日 |
住所 | 千代田区神田佐久間町3佐久間公園内 |
備考 | - |
草分稲荷社の由緒
草分稲荷社は、江戸時代に板倉主計頭の邸神として創建、明治維新後には町内有志により維持されてきたものの、昭和36年に佐久間公園東北隅に遷座したといいます。
草分稲荷社維持会掲示による草分稲荷社の由緒
草分稲荷社大神由来
この社は元、板倉主計頭邸内に祭られていましたが、明治維新の後、武家屋敷が取りはらわれて町家と変り祠のみが残っていました。
廃れゆく稲荷を惜しんだ町内の有志が蓄財を出し合い保存と祭社の策を講じていたもので昭和三十六年佐久間公園東北隅に遷座されました。
現在も佐久間町三丁目町会を中心に連合町会にてお祭りを行っています。(草分稲荷社維持会掲示より)
「千代田の稲荷」による草分稲荷社の由緒
草分稲荷神社は、板倉主計頭邸内に祀られていた屋敷神であったと伝えられており、宇迦之御魂命が祀られている。実際に文久二年(一八六二)板の「東都下谷絵図」によれば、現・佐久間公園付近一帯は板倉伊予守の屋敷であったことが確認でき、維新後に取り残された祠を町内の有志が守り続けてきた。
元々、稲荷は同町の二一-四あたり(板倉主計頭邸敷地内)に遷座しており、昭和三六年に佐久間公園東北隅に移転した。
草分稲荷神社の初午祭は、以前は二月初午に町会関係者を中心に神事のみ行なっていたが、町会の餅つき大会と同日にすることによって、より多くの人々が参加できるということ、また近隣の小学校に通う子供たちにも参加してほしいとの考えから、二月初午に近い土曜日に初午祭と餅つき大会が行なわれることになった。祭礼当日、社殿には地口提灯や幟などで飾りつけがなされるが、とくに幟は昭和二六年から使われているものである。神事が終了すると、町会の青年部による餅つきが行なわれ、子供たちも餅をついたり、菓子をもらったりして祭礼に参加する。また婦人部の協力で豚汁や甘酒などが振る舞われ、初午祭当日の佐久間公園は、町会関係者を中心として大勢の人々で賑わっている。(「千代田の稲荷」より)
東京名所図会による草分稲荷社の由緒
草分稲荷社
草分稲荷社は。神田佐久間町三丁目二十一番地第三號地なる民有地に鎮座せる稲荷社なり。雑社にして、祭神宇迦之御魂命。些やかなる宮にて、石の鳥居あり。文政六癸未年二月初午造立之、云々、の銘を刻しぬ。石の手洗鉢には、明治七戌年十一月吉日、と、ありて境内素木造の玉垣を結ひて、雨に窶れたり。聞く當社は、舊板倉主計頭の邸内に勧請しありたる稲荷社なりしかど、維新後に及びて、同邸内は町家と変じ、祠のみ此地に残りたりと。ここに町内の有志者等は、其の頽廃を嘆きて、保存の策を講じ、毎戸若干の金品を拠し、以て祭祀並に修繕費等に充てるるあるなり。(東京名所図会より)
草分稲荷社の周辺図
参考資料
- 「千代田の稲荷」
- 「東京名所図会