築土神社|津久土明神、田安明神
築土神社の概要
筑土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久土明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して筑土明神となり、途中明治7年に筑土神社と改称しましたが、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年空襲で社殿などを悉く焼失し、29年には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわり田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。
社号 | 築土神社 |
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祭神 | 天津彦火邇々杵尊 |
相殿 | 平将門公 |
境内社 | 世継稲荷神社、天満宮大鳥神社 |
住所 | 千代田区九段北1-14-21 |
備考 | 村社 |
築土神社の由緒
筑土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久土明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して筑土明神となり、途中明治7年に筑土神社と改称しましたが、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年空襲で社殿などを悉く焼失し、29年には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわり田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。(詳細は築土神社公式HP;http://www.tsukudo.jp/)
千代田区教育委員会掲示による築土神社の由緒
社伝によれば筑土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久土明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して筑土明神となり、途中明治7年に筑土神社と改称しましたが、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年空襲で社殿などを悉く焼失し、29年には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわち田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。(千代田区教育委員会掲示より)
東京都神社名鑑による築土神社の由緒
天慶三年(九四〇)江戸城内の武蔵国豊島郡上平川村に創祀され、津久戸明神と称したのがはじめで、のち文明十年(一四七八)太田道灌が当社をことのほか尊崇し、同年六月社殿を造営し、江戸城の鎮守または太田家の守護神として祭祀を篤くされた。こえて徳川家康公の江戸城に移るにおよび、城郭の改修に伴い天正七年(一五七九)田安郷に替地を賜い、遷座された。さらに元和二年(一六一六)外濠普請の起工により、牛込区筑土八幡町に遷座するの止むなきに至った。その時津久戸明神を築土明神と改称、明治七年さらに改めて筑土<築土>神社と称した。(東京都神社名鑑より)
「牛込區史」による築土神社の由緒
筑土神社
當社は元城内の三の丸の地に在つたが、天正十七年に牛込門内に移し、元和二年に再び今の地に移った。祭紳は八幡太郎だとも云ひ、叉諸書に大己責命を祭ると考證し、俗説には平将門の首を祭って、血首大明神と崇めたともいふ。『江戸名所圖會』に筑戸は次戸とも記し、次戸は江戸の轉訛であるから、當社は『武蔵風土記』に記す江戸神社であたうと言つてゐる。将門傳説は神田明神にもあり、同社は大己貴命と平将門とを合祀してゐるが、これについては『多祠元之進雄尊。土俗妄傳稱将門。凶賊破家惟此事。神宮何不解誣寃』(『垂加文集』)のやうな否定説、『神田社大己貴命之鎮座。将門之社者去本殿百歩許』(『神社啓蒙』)のやうな攝社攝などもあつて更に定説がない。けれども諸説によつて、神田明神と筑土明神の關係は、考ふべき問題であることはわかる。尚ほ津久戸明神は川越氷川明神と同體であるから、素戔嗚尊を祭つたものであると『永享記』や『中古治亂記』には記してあることも忘れてはならぬ。境内拝領地四千ニ百坪、昔は門前町屋があつた。将門首桶と稱するものを蔵して居り、其銘に『武蔵國江戸郷上平河村、天文壬子十一月十五日御せんくう之事』とある。(千代田区教育委員会掲示より)
築土神社所蔵の文化財
- 築土神社の狛犬(千代田区指定文化財)
- 築土神社の力石(千代田区指定文化財)
築土神社の狛犬
本狛犬は、台座部分もあわせると高さ1.5mほどになる一対の石像です。左右の像とも本殿から見た面に「元飯田町」「惣氏子中」「安永9庚子11月」との銘文が刻まれています。元飯田町というのは、現在の富士見1丁目および九段北1丁目あたりのことです。天正18年の徳川家康の関東入国ころより、中坂や九段坂の坂下一帯を飯田町と称していましたが、元禄10年(1697)の火災で町が築地に移されて南飯田町となった際に、九段中坂一帯に残った町地を元飯田町と呼ぶようになりました。
社伝によれば筑土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久土明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して筑土明神となり、途中明治7年に筑土神社と改称しましたが、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年空襲で社殿などを悉く焼失し、29年には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわり田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。 元飯田町の住人が本件狛犬を奉納した安永9年(1780)には、筑土神社は彼等の居住地から少し離れた場所にありました。下飯田町の住人は、自分たちの信仰の対象である神社が牛込に遷座したあとも変わらぬ信仰を続け、いわばその証として本資料を奉納したのだといえます。
また、本件狛犬の一方の頭上には「角」が、また他方の頭上には「宝珠」がのせられています。これは厳密な意味で前者を「狛犬」、後者を「獅子」と意識して区別したことの表れであると思われます。
区内の寺社などに現存する最古の狛犬であるこの筑土神社の狛犬は、私たちに筑土神社の江戸時代の信仰の広がりを伝え、かつて千代田区域に居住していた人々の暮らしと信仰の様子を語りかけつつ、九段の一隅に佇んでいます。(千代田区教育委員会掲示より)
築土神社の周辺図