五十稲荷神社|千代田区神田小川町の神社

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五十稲荷神社|五と十のつく日に祭事

五十稲荷神社の概要

五十稲荷神社の創建年代は不詳ですが、慶長年間(1596-1615)には既に当地に鎮座していたと伝えられます。正徳年間(1704~1715)に当地が足利戸田長門守の屋敷地となりましたが、当地の鎮守として奉祀され、足利雪輪町稲荷神社も合わせ祀り、栄寿稲荷大明神と称されていました。足利では五と十のつく日に織物市が開かれていたことから、市の繁栄を祈願して毎月の祭事を五と十のつく日に執り行い、明治時代に入ってからも五と十のつく日には縁日が建つほどの賑わいをみせたことから五十稲荷と呼ばれています。

五十稲荷神社
五十稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 倉稲魂命
相殿 -
境内社 -
住所 千代田区神田小川町3-9
祭日 例大祭4月15日
備考 旧無格社



五十稲荷神社の由緒

五十稲荷神社の創建年代は不詳ですが、慶長年間(1596-1615)には既に当地に鎮座していたと伝えられます。正徳年間(1704~1715)に当地が足利戸田長門守の屋敷地となりましたが、当地の鎮守として奉祀され、足利雪輪町稲荷神社も合わせ祀り、栄寿稲荷大明神と称されていました。足利では五と十のつく日に織物市が開かれていたことから、市の繁栄を祈願して毎月の祭事を五と十のつく日に執り行い、明治時代に入ってからも五と十のつく日には縁日が建つほどの賑わいをみせたことから五十稲荷と呼ばれています。

境内掲示による五十稲荷神社の由緒

創祀の時代は詳らかではなく、慶長の頃(西暦1700頃)既に当地に御鎮座され、徳川家に於いて安産守護神として厚く崇敬せられたと伝えられています。
正徳の頃(西暦1750頃)栃木県足利の戸田長門守が当地を拝領し、屋敷を構えるに及び、当社地もその邸内に入り、戸田家で当地の鎮守として奉祀され、故郷の足利市雪輪町旧御陣屋大門に奉斎されていた稲荷大神(現雪輪町稲荷神社)も合わせ祀り、栄寿稲荷大明神と崇め奉り、崇敬の誠を尽くされたのであります。
当社は昔から「五十稲荷」といわれていますが、起源は古く戸田領足利で織物の市が五と十のつく日に開かれるのが慣わしであり、江戸の戸田邸でもその繁栄を祈願する為に、毎月の祭事を五と十のつく日に執り行い、月々の祭日と二月の初午祭には門戸を開放し、諸人の参詣を許しました。
明治になり、廃藩置県制度により大名屋敷が町屋となり当社の御祭日祀も崇敬者等により受け継がれ、一年を通し毎月五と十のつく日には多くの参詣があり、後には縁日が立ち「五十様の縁日」と呼ばれ、東京市内でも有名になり、俗称として「五十稲荷」と呼ばれるようになりました。
当社の公の社号は「稲荷神社」であり、明治5年に公認の「神社」として列格致しました。
大正12年(西暦1923)の関東大震災迄は現在地のすぐ横に約200坪の境内地がありましたが、震災後の東京市土地区画整理により、現在の地に縮小移転させられました。(境内掲示より)

「千代田の稲荷」による五十稲荷神社の由緒

栄寿稲荷神社は、慶長年間(一五九六〜一六一五)に伏見稲荷大社から分霊して祀られたのが発祥であり、安産の利益があるとして徳川家からも信仰されていたと伝えられている。その後、正徳年間(一七一一〜一六)に当敷地が戸田長門守邸となり、引き続いて同家の屋敷神として祀られた。また、戸田家の領地であった足利市雪輪町旧御陣屋大門の稲荷大神(現・雪輪町稲荷神社)も合祀されていた。足利では、織物市が五、十の日に聞かれていたことに由来して、江戸邸でも五、十の日に月次祭が行なわれ、この両日と初午祭には門戸を開放して一般の参詣者を招き入れたことから、「五十稲荷」と俗称されるようになったと伝えられている。
また当社は安産守護で知られている。祈願方法は、神社で授ける「御供豆」(白豆)を用いたもので、この豆を二つに割り、断面に願主の氏名・年令を書いて、元の形に合わせて神前に供えるというものである。『新撰東京名所図会』にも、この安産の願掛けが記載されており、「両断して祈請せる呪文を書し、再ぴ合して旧形となし。産前四十日頃服用するときは、安産の効験著しとて、妊婦の祈請を乞ふ者多く、時に千葉、茨城等の近県より来ることあり」とあり、当時は豆を服用していたようである。また風邪や咳の快復祈願としては、「御供豆」(黒豆)を受け、それを煎じて飲むという方法であった。どちらの願掛けも戦後しばらくは祈願者があったというが、次第に減少していった。しかし、現在でも祈願者があれば受け付けるとのことである。
当社は、明治五年に無格社となり、同二五年には戸田家が他地に転居することになったが、引き続き町内の守護神として記られることになり、五、十の日の祭礼も継続された。その後、宗教法人化した。また、当初は現在の小川町三丁目一番地に所在したが、関東大震災で全焼。昭和三年に区画整理のため現在地に移転し再建したが、昭和二〇年に戦災で社殿が焼失、翌年再建した。
以前は毎年四月に祭礼を行なっていたが、最近は二月に行われている。特に氏子地区を決めていない崇敬社であることから、世田谷区や昭島市などの他区域に住む人々からの信仰も寄せられている。(「千代田の稲荷」より)

東京都神社名鑑による五十稲荷神社の由緒

慶長のころ(一五九六-一六一五)、当地に鎮座。正徳のころ(一七一一-一六)、戸田長門守、当地を拝領、江戸の下屋敷として邸を構え、戸田家は当社を当地の鎮守として奉祀。旧戸田領栃木県足利市雪輪町旧御陣屋大門に奉斎されていた稲荷大神をも合祀し、栄寿稲荷神社ととなえた。後に「五十稲荷」と俗称される由縁は、戸田領足利にて織物市が「五」と「十」の日に開かれており、下屋敷内の当社もこれにならい、「五」と「十」の祭日および初午祭には門戸を開放、諸人の参詣を許すことになったことによる。明治時代に戸田家は下屋敷を開放し、当社の祭祀も崇敬者に承継され、一年を通し「五」と「十」の月六回立つ縁泊は、大いに賑わい「五十の縁日」と呼ばれて俗称とともに都内で有名となる。明治五年に公認の社に列せられる。関東大震災で全焼。東京市土地区画整理により、昭和三年、旧表神保町一の二(現小川町三の一)より現小川町三の丸に移転、本社を再建、神域を整備。同二十年二月二十五日空襲により全焼。(東京都神社名鑑より)


五十稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 「千代田の稲荷」
  • 東京都神社名鑑