八官神社|銀座八丁神社めぐりの一社
八官神社の概要
八官神社は、中央区銀座にある神社です。八官神社は、明治時代の口碑によると、播磨の明石に鎮座する明石稲荷が京都大内家へ勧請され、それを井上若狭が元禄年間(1688-1704)当地へ勧請したといいます。明治8年村社に列格していたといいます。銀座八丁神社めぐりの一社です。
社号 | 八官神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 中央区銀座8-4-5銀座はちかん3110ビル1階 |
備考 | - |
八官神社の由緒
八官神社は、明治時代の口碑によると、播磨の明石に鎮座する明石稲荷が京都大内家へ勧請され、それを井上若狭が元禄年間(1688-1704)当地へ勧請したといいます。明治8年村社に列格していたといいます。
東京名所図会による八官神社の由緒
穀豊稲荷神社
穀豊稲荷神社は八官町十二番地に鎮座あり。村社にして祭神は宇気毘賈神とす。同社の記録に、「當社祭神は舊名播州明石に於て明石稲荷と稱し鎮座有しを、京都大内家へ遷し奉り、其後當社初代の神主井上若狭、元禄年中當地へ奉迎して今の地に斎祭せられし由。古老の口碑に傳ふりと雖、傳記の焼失したるを以て、事跡詳ならず、其後寳永四年五月、井上若狭並町内信仰の者、町内鎮守に被定度旨、町奉行丹羽遠江守殿へ出願、御聞届相成候、其後明治八年五月廿九日村社出願、八月村社へ被定候。」とあり、享保は寳永の後なるに、地主屋敷の鎮守としたるはいかが、寛延板の總鹿子には穀豊稲荷、八官町、神主宇治川主税とせり。合殿に加賀毘賈神を祀れり。社記に、舊名主田中平四郎、先祖より代々守護致来候處、慶應四年五月當社に合祀すと。
本社間口二間奥行二間
幣殿同
拝殿同
社務所間口一間半奥行五間
境内間口に間半奥行十一間(二十六坪二合五夕)
同社に、正徳二年の神輿及同年氏子中より寄附したりといふ獅子頭を蔵せり。
神前の随身は明治十七年五月、石狐は同十六年五月の寄進にして、花崗岩の鳥居は同十五年三月、玉垣は同十六年修復する所たり。氏子は八官町一ヶ町にして百二十戸を有し、小祭連月六日、廿二日、大祭は五月廿一、二、三日の三日間とす。現任の社掌は須藤光建氏なり。(東京名所図会より)
「中央区史」による八官神社の由緒
八宮神社(元禄年間)
明石稲荷として武家方、町家の崇敬をあつめた。明治二年加賀姫稲荷を合祀、八年村社に列せられ、区劃整理後八宮神社と改号した。(「中央区史」より)
八官神社の周辺図