宝珠稲荷神社|板倉内膳匠重昌の邸内神
宝珠稲荷神社の概要
宝珠稲荷神社は、中央区銀座にある稲荷神社です。宝珠稲荷神社は、板倉内膳匠重昌の邸内神として元和元年(1615)前後に創建、明治維新後に地元木挽町三丁目氏子に寄進され、奉斎しているといいます。
社号 | 宝珠稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 中央区銀座3-14-15 |
備考 | - |
宝珠稲荷神社の由緒
宝珠稲荷神社は、板倉内膳匠重昌の邸神として元和元年(1615)前後に創建、明治維新後に地元木挽町三丁目氏子に寄進され、奉斎しているといいます。
「中央区史」による宝珠稲荷神社の由緒
板倉内膳正が邸内守護神として祭祀したものを亀井伯家に遷し、更に町内へ寄進されたもの。信者三八〇人。(「中央区史」より)
東京都神社名鑑による宝珠稲荷神社の由緒
神社本庁所属でないため記載なし(東京都神社名鑑より)
境内掲示による宝珠稲荷神社の由緒
宝珠稲荷神社は一六一五年の頃三河の国深溝の領主板倉内膳匠重昌の江戸屋敷内に家内安全火除の神として祭神せられたるものなり
内膳匠重昌は京都所司代及江戸町奉行として今名高かりし板倉勝重の次男として一五八八年後陽成天皇の御代天正十三年の頃の生れである 重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣島原の乱等に追討軍今として鎮台に務めたるも不幸にして島原に於て年令五〇才にして戦死したるものなり
時の将軍は家光であり第一一〇代後光明天皇の御代である内膳匠の兄周防の守重宗は下總の国関宿の城主なり 年経て一七六〇年宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり
明治の維新に於ける亀井滋玄の功積は太鼓稲荷と共に有名なり 更に大七7年岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町三丁目氏子に寄進せられ一九五〇年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及社務所を建設して今日に至るものなり(境内掲示より)
宝珠稲荷神社の周辺図