笠間稲荷神社東京別社|笠間藩主牧野貞直公が奉斎
笠間稲荷神社東京別社の概要
笠間稲荷神社東京別社は、中央区日本橋浜町にある神社で、日本三大稲荷のひとつ茨城県笠間稲荷神社の東京別社です。笠間稲荷神社東京別社は、江戸時代末期に笠間藩主牧野貞直公が、本社より御分霊を奉斎して建立されたといいます。紋三郎稲荷とも称されるといいます。
社号 | 笠間稲荷神社 |
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祭神 | 宇迦之御魂神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 中央区日本橋浜町2-11-6 |
備考 | - |
笠間稲荷神社東京別社の由緒
笠間稲荷神社東京別社は、日本三大稲荷のひとつ茨城県笠間稲荷神社の東京別社です。江戸時代末期に笠間藩主牧野貞直公が、本社より御分霊を奉斎して建立されたといいます。紋三郎稲荷とも称されるといいます。
中央区神社案内による笠間稲荷神社東京別社の由緒
日本三大稲荷のひとつであります茨城県の笠間稲荷神社の東京別社は、江戸末期に時の笠間藩主である牧野貞直公が、本社より御分霊を奉斎、以来人々に崇敬され、紋三郎稲荷として親しまれております。(中央区神社案内より)
東京都神社名鑑による笠間稲荷神社東京別社の由緒
この地はもと徳川五代将軍綱吉の寵臣、牧野成貞の拝領地の一部で、邸内には稲荷社が奉斎されていた。綱吉がこの浜町邸にお成りの節は参拝している。たまたま牧野氏は延享四年(一七四七)笠間城主となり、笠間稲荷神社を崇敬し、安政六年(一八五九)、時の城主牧野貞直、その御分霊をこの社に合祀し、崇敬の誠をつくした。明治廃藩後は公認神社として独立した。大正十二年九月の関東大震災には社殿を焼失したが、ただちに再建された。昭和二十年三月の東京大空襲には、社殿全焼するの厄にあった。(東京都神社名鑑より)
「中央区史」による笠間稲荷神社東京別社の由緒
笠間稲荷神社(日本橋久松町三九)祭神に宇迦之御魂命を祀るが、別に紋三郎稲荷とも称する。胡桃下稲荷として有名な茨城県笠間市の笠間稲荷神霊を安政六年十一月牧野越中守が浜町の自邸内に分祀したものが当社の起立である。明治六年十二月現在地に遷座、続いて同十一年三月官許を得て公衆の参拝を許し今日にいたった。境内社に牧野家の臣藤井監物を祀った晴雲神社があり、又明治座内に笠間稲荷神社分霊を奉祀する。氏子はなく、旧日本橋区を主とし、ほかに東京・横浜・市川方面に居住する約五百人の崇敬者をもって東京紋三郎講を組織している。戦前毎月二の日に縁日が賑ったが現在この風は癈れた。例祭は十一月十五日、ほかに初午祭・追儺祭・節分祭等の年中行事がある。敷地坪百四坪七合五勺、建物は本殿一坪、拝殿五坪、社務所十五坪、いづれも戦後新に造営したものである。(「中央区史」より)
「日本橋區史」による笠間稲荷神社東京別社の由緒
胡桃下稲荷神社
久松町三十九番地にあり。祭神は倉稲魂命にして社名を一に紋三郎稲荷と稱す。安政六年、常陸國笠間藩主牧野氏、同國笠間稲荷を勸請し、初めて濱町に祭り、明治五年今の地に移祀したるものなり。(「日本橋區史」より)
東京名所図会による笠間稲荷神社東京別社の由緒
胡桃下稲荷神社
胡桃下稲荷神社は、久松町三十九番地に鎮座せり、又紋三郎稲荷とも呼ぶ。同社は、常陸國笠間の藩主従六位牧野某、安政六年、領地なる笠間の胡桃下稲荷神社の分霊を乞ふて、濱町二丁目の邸内に奉斎せしを、明治五年に及びて、現今の地に奉遷せりといへり。無格社にして、祭神倉稲魂命。社殿土蔵造にして安政年間創建の儘なり。社務所及神楽殿は、明治二十九年寄進なり。天水釜一對、手洗場、また境内に末社一棟あり。(東京名所図会より)
笠間稲荷神社東京別社の周辺図