鉄砲洲稲荷神社|旧称八丁堀稲荷、旧郷社
鉄砲洲稲荷神社の概要
鉄砲洲稲荷神社は、中央区湊にある稲荷神社です。鉄砲洲稲荷神社の創建年代は不詳ですが、承和8年(841年)の創建とも承久年間(1219-1221)の創建と伝えらるといいます。寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷座、八丁堀稲荷と称していたといいます。明治元年(1868)鉄砲洲が外国人居留地となったことから当地に遷座、明治6年郷社に列格していたといいます。
社号 | 鉄砲洲稲荷神社 |
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祭神 | 宇迦之御魂大神、豊受姫大神 |
相殿 | - |
境内社 | 八幡神社、琴平神社、住吉社、浅間社、三輪社、天満社 |
住所 | 中央区湊1-6-7 |
祭日 | - |
備考 | 旧郷社 |
鉄砲洲稲荷神社の由緒
鉄砲洲稲荷神社の創建年代は不詳ですが、承和8年(841年)の創建とも承久年間(1219-1221)の創建と伝えらるといいます。寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷座、八丁堀稲荷と称していたといいます。明治元年(1868)鉄砲洲が外国人居留地となったことから当地に遷座、明治6年郷社に列格していたといいます。
中央区教育委員会掲示による鉄砲洲稲荷神社の由緒
鉄砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。
神社は寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1868)現在地に移転し、今日に至っています。
関東大震災により被害をうけた境内は昭和10年(1935)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向かい合うように配置され、境内西南隅に神楽庫が設けられています。また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。
境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残りをとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。(中央区教育委員会掲示より)
東京都神社名鑑による鉄砲洲稲荷神社の由緒
鉄砲洲の地は、徳川家康公入府のころは、鉄砲の形をした南北八丁の細長い、隅田川口の島であった。寛永のころ(一六二四-四四)砲術の家井上、稲富両家が、ここで鉄砲、大砲の射撃演習をしていたのでこの名が生じたともいう。八丁堀、三十間堀の掘られたのが慶長十七年(一六一二)であり、京橋あたりの土地形成が室町時代の天文のころ(一五三二-五五)である。これら、京橋銀座鉄砲洲一帯の土地生成の産土神が、城砲洲稲荷神社の「生成の太神」である。平安初期仁明天皇の承和八年(八四一)に年来打続く凶作に教えられるところあって、この土地の住民たちが自らの産土の国魂神を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成の太神として仰ぎ、その神恩に感謝し、日常の御守護を祈願した。しかるにこの御鎮座の地が当時の東京湾のもっとも奥の今の馬場先あたりだったというので、諸船舶の出入繁く、船乗人の崇敬が厚かった。その後、埋立が進行して海岸線が東へ延びたため、京橋近くへ御遷座になった。さらに室町末期の大永年中(一五二一-二八)に、今の新京橋あたりへ御達座し、八町堀稲荷神社と称した。寛永元年(一六二四)には、鉄砲洲まで地続きとなったので、その海岸へ御遷座となり、従来から鐵砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし通称湊いなり、鐵砲洲稲荷神社と称する。(東京都神社名鑑より)
「中央区史」による鉄砲洲稲荷神社の由緒
鉄砲洲神社(湊町一の八)
起立の年月として口碑に伝えるところはきわめて古く承和年間というが、元祿十六年および文政十二年の火災に社記を焼失して詳しいことはわからない。鎮座の地が東京湾の最も奥に位置していたため、船人の崇敬が他にまして厚かったという。鉄砲洲稲荷が本湊町に移ったのは慶応三年八月のことで、以来元八丁堀稲荷と称したが、明治五年十一月村社に列し、翌六年七月郷社となった。現在の建造物は大正震災後のもので、本殿・拝殿・幣殿等檜流造五十坪は昭和十年十月に、神楽殿・社務所など百六十坪は昭和十二年それぞれ竣工したものである。例祭を五月二十日にいとなみ、月次祭は一日・十五日に執行する。摂社に鉄砲洲八幡神社、末社に金刀比羅神社・恵比寿神社・鉄砲洲富士浅間神社がある。富士浅間神社は宝暦十一年五月五日富士講の奉賽するところともいうが、山麓の石碑には、
当神社境内に在る婦富士山は始め寛政二年九月稲荷橋南詰の元社地内に築造されしものなり江戸名所図絵巻之一湊稲荷神社の図のうちにあり 明治二年二月社地の移転ありて明治七年四月に至り現在の大島居より東南十二三間の処に再築さる 明治十八年社殿御造営に際し現在の大島居の西北約八間を距りたる処に移されしが、更に大正大震後の区画整理に因る社地移転に当りて昭和三年十二月此処へ移す
昭和三年十二月
郷社鉄砲洲稲荷神社
御社殿御造営に因り昭和十一年秋右に記録せる位置より富士山を西へ二間大島居を南へ二間夫々移動せり 社司青葉運太識
とある。元旦の歳旦祭、節分祭、五月例大祭、十一月十五日七五三祭、十二月冬至祭などの年中行事がある。また、二月十七日豊年祈願祭には田植舞、十一月二十三日新穀感謝祭には稲穂舞などの神楽舞が奉納され、在京外国人の見学する姿をよく見受ける。冬至祭には金銀富貴の札と、一粒万倍の金銀目芽え袋とを頒与する。氏子は銀座東一丁目から八丁目まで、新富町一、二、三丁目、入舟町および湊町の全域、明石町、越前堀一丁目など区内十九ヵ町にわたり、その数約五千戸に達する。(「中央区史」より)
境内掲示による鉄砲洲稲荷神社の由緒
鉄砲洲の地は、徳川家康入府の頃は、既に鉄砲の形をした南北凡そ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が之に相当します。寛永の頃は此処で大砲の射撃演習をしていたので、此の名が生まれたとも伝えられています。昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったものであって、八町堀の掘られたのが慶長17年であり京橋あたりの土地生成が、天文の頃足利義輝の治世になっていますが、之等京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の鉄砲洲稲荷神社の「生成大神」であります。
遠く平安時代初期の人皇第54代仁明天皇の承和8年(841年)に年来打続く凶作に数えられる所あって、此の土地の住民達が自らの産土の国魂神を祀り、万有の生命を生かし成し給う大御親生成の大神として、仰いでその神恩を感謝し奉り、日常の御守護を祈願致しました。所が此の御鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していました為に、港として諸船舶の出入り繁く、霊験のあらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗る厚くなりました。その後埋立が進行して現在の京橋のあたりへ御遷座となり、更に室町時代末期の大永年中に氏子崇敬者達の願望によって又新しい海岸へ遷座し奉って八町堀稲荷神社と称しました。
今の新京橋の近くであります。所が更にその後年にも埋立が進行して海岸は東方へ移りましたので、寛永元年には南八町堀地続きとなった鉄砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鉄砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鉄砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。
此の時代を通じて江戸で消費する米・塩・薪炭を始め、大抵の物資は悉く此の鉄砲洲の港へ入ってきました為に、大江戸の海の玄関に位置する此の鉄砲洲に御鎮座のいなり大神は、船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事・冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸諸方々の人々から拝載されています。
抑も此の神社は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基くものであります。
さて、我等は如何にして富み且つ貴くなる事が出来るかと言うに、それには各自悉くが自分の親を大切にして先祖を供養し、子孫の為に善根を培って行けば人も自分も、先祖も子孫も、此の世にも彼の世にもみんな救われて永遠の生命に生きることが出来ます。また天地生成の恵みに感謝し、人のお蔭様に報恩の誠を捧げて行けば、必ず富み且つ貴い運命を開く事が出来ます。此の運命開拓の御催促と共に、力の不足に対する、力の根源である大御親神から愛子への愛の御力添えが、此の金銀富貴の神礼であります。(境内掲示より)
鉄砲洲稲荷神社所蔵の文化財
- 鐵砲洲稲荷神社社殿(中央区民登録文化財)
- 鐵砲洲稲荷神社の富士塚(中央区民登録文化財)
- 鐵砲洲稲荷神社の力石(中央区民登録文化財)
- 鐵砲洲稲荷神社富士塚内の力石(中央区民登録文化財)
鉄砲洲稲荷神社の周辺図