福徳神社|旧称福徳村に鎮座
福徳神社の概要
福徳神社は、中央区日本橋室町にある稲荷神社です。福徳神社の創建年代は不詳ながら、貞観年間(清和夫皇・八五九年~八七六年)には鎮座していたといい、福徳村と称されていた村の村名から社名を福徳神社と称したといい、源義家・太田道灌など武将からの尊崇も篤く、徳川家康・秀忠も参詣に訪れたといいます。明治7年村社に列格しました。
社号 | 稲荷神社 |
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祭神 | 倉稲魂命 |
相殿 | 天穂日命、大己貴命、少名彦名命、事代主命、三穂津媛命 |
合祀 | 太田道灌、弁財天、徳川家康 |
住所 | 中央区日本橋室町2-4-14 |
備考 | 旧村社 |
福徳神社の由緒
福徳神社の創建年代は不詳ながら、貞観年間(清和夫皇・八五九年~八七六年)には鎮座していたといい、福徳村と称されていた村の村名から社名を福徳神社と称したといい、源義家・太田道灌など武将からの尊崇も篤く、徳川家康・秀忠も参詣に訪れたといいます。明治7年村社に列格しました。
福徳神社栞による福徳神社の由緒
当神社の創祀された時は明らかではないが、当社に伝わる略記によると貞観年間(清和夫皇・八五九年~八七六年)に既に鎮座していたようである。
当社は武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号とした。
その鎮座する社地広く社殿も広壮にして社の四隣は森林、或いは田畑に囲まれ、農家が散在している片田舎であった。土地の人は神社の森を稲荷の森と呼び、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を稲荷の一里塚と言っていた。後に明暦三年酉年(一六五七年)正月八日の大地震により崩壊し碑石散乱したのを時の人々が残存した破片を集め保存を計ったと伝えられる。
今、その碑銘の写しをここに揚げてみると
表
宮戸川邊り宇賀の池上に 立る一里塚より此福徳村 稲荷森塚迄一理
裏
貞観元年卯年 三つき吉祥日
とあってそこに、そもそも当社は元来武将の信仰厚く源義家朝臣・みなもとのよしいえあそん・(一〇三九年~一一〇六年)が深く崇敬されていたことが記されていたと伝わっている。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっている。
徳川家康公入府し、大正十八年(一五九〇年)八月・初めて参詣しその後参詣は数度に及び、更に二代将軍秀忠公は慶長十九年(一六一四年)正月八日に参詣し「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛した。この時、当社の古例である椚(クヌギ)の皮付き鳥居に春の若芽の萌え出でたのを御覧になり、神社の又の名を『芽吹(めぶき)神社』とつけられた。元和五年(一六一九年)二月に御城内の弁天宮を当神社に合祀するにあたり将軍自ら神霊を納められ、大和錦の幌を奉納し更に『社地縄張を三百三十坪』と定められた。(福徳神社栞より)
「中央区史」による福徳神社の由緒
福徳神社(日本橋室町二の四ノ九)
倉稲魂命を祀り、震災前は瀬戸物町二十四番地にあったものを、大正十四年区画整理に伴い現在地に換地し、以来此地に鎮座して今日に至った。旧社号を福徳稲荷といい、明治九年九月一日福徳神社と改められた。年々五月九日に例祭を執行するが、氏子は室町および本町の各一、二丁目の一部に分布し、その数およそ六〇戸ばかりである。境内末社一社があるが、祭神は宇迦之御魂命・松村稲荷・武田稲荷と称し天明年中の鎮祭という申伝えがあるが由緒詳らかでない。(「中央区史」より)
東京都神社名鑑による福徳神社の由緒
福徳神社
清和天皇の貞観のころ(八五九-七七)すでに鎮座せられていた由、くだって慶長のころ(一五九六-一六一五)徳川氏江戸に幕府を開いてのち、当所は千代田城に近く、したがって大小名また武家・町人等往来繁く、商家登を連らねる隆昌をみるにいたり、勢の赴くところ寸尺の地をさがし相争うほどに、元和の年(一六一五)二代将軍秀忠公当社社地に縄張りを命じて、境内地三反三十三坪と定めた。当時社殿宏壮にして境内地に樹木繁茂し、森厳をきわめたが、三代将軍家光のころより幕末に至る間、当所は江戸の中枢地として俗に土一升金一升などと称えられる殿賑をきわむる土地となり、この間数度境内地一部の上地を命ぜられ、維新後には四十余坪の境内地を存することとなった。大正十四年区画整理が実施されたさい、都市計画法の正規により、内務大臣の移転命令にしたがい換地として現在の地に奉遷鎮座した。(東京都神社名鑑より)
東京名所図会による福徳神社の由緒
福徳神社
福徳神社は續江戸砂子に室町うきよ小路に在りと記し。即ち現今の瀬戸物町にして倉稲魂命を鎮座す。當社を創立せし年月は何れの頃にかありけむ。文献の徴すべきなければ事實を知るに由なけれど。該社に傳はる畧記に因れは。清和天皇の御代貞観の年頃既に鎮座ありしものの如し。左に其由緒畧記等を記さむ。
往古當社鎮座の地は武蔵野の村落にして。即ち福徳村の稲成神社にてありしかは。さてこそ神社の御號とはなりしなり。かかる土地柄なれは自然と社地も廣く神殿も亦壮麗にして。社頭の四隣は或は森林或は田畑にて圍繞し。農家此所彼所に散在する。寔に僻陬の地なりし也。今猶其概略を想見すへき古圖を保存せり。然るに徳川幕府の隆昌なるに随ひ。寸尺の地をさへ相争ふに至りけれは元和の年二代将軍秀忠公當社社地に縄張を命し玉ひ。三百三十三坪餘と定められき。されど爾後数回の火災に遭ひ其都度漸々戸券地に蠧食せられ。遂に舊地の形跡をたに残さすなりぬ。
斯ぐの如く福徳村と稱へし當時は。森林田圃中の御社なりしかは。土地の人等此森林を稲成の森と呼ひ。其森の一端に建てある路程標を(石造一里塚)稲成の森塚と言ひき。然るに明暦三酉年正月十八日大震にて所々より出火し。これか為め碑石も焼破なししを。時人大和屋長兵衛地主與右衛門川津十兵衛等古蹟の空しく湮滅せんことを嘆きて。僅かに讀み得べき文字の残存したる破片を拾ひ。之か保存の方法を計りきと傳ふるも。其後いかになりけん知るよしなし。今碑銘の寫しを掲げんに
表宮戸川の邊り宇賀の池上に立る一里塚より此福徳村稲成森塚迄一里
裏貞観元卯年三月吉祥日
とありまた記して云
抑も當社は元来武将の信仰多く。源義家朝臣の深く崇敬せられし事も傳ふれど是と證すべき事蹟はさだかならず。太田道灌公の如きは既に相殿に鎮め祭りありて兜、矢、鏃等の遺物を保存す。又徳川代将軍家康公は崇敬殊に厚く、天正十八年八月始めて参詣し玉ひ。其後数度に及ひ遂に鳩のお杖の遺物を後の世に迄保存するに至れり。二代将軍秀忠公は。慶長十九年正月廿八日参詣し玉ひ福徳とは。いと目出度社號なりと稱賛せられたり。此時當社の古例なる椚の皮附き鳥居に春の若芽の萌出でたりけるを見そなはして御社の又の名を芽吹神社とたてまつられきとなり。尋で元和五年二月御城内奉斎の辨天宮を當社に合祭せらあるるに當り。将軍親しく神璽を納められ又錦の幌の寄附あり。其後屡々参詣の途次室町一丁目尼ヶ崎又右衛門方に立寄らせ玉ふを例とし。且度々の参詣なればとて茶器類を當社頭に備へられしか。其内の茶釜は終に寄附になりて。今猶寶物中にあり。尚御城普請不用の竹木類並に葵紋附き高張提灯一對寄附せられ。今に現存せり。
とあるも如何のものにや確實なる證跡少なければ其儘記し置くこととせり。
當社は明治七年八月社格を村社と定められ。同九年九月社號を福徳神社と官准せらる。氏子は瀬戸物町凡百六十戸ばかりにし現時の大祭日を五月九日とし。中祭日を九月九日。小祭日を毎月九日と定む。また當社の神職森村家は其先祖楠家に出でたるものにて。當代社掌森村正俊氏に至る其間實に十六代なりといふ。(東京名所図会より)
福徳神社の周辺図