松島神社|日本橋七福神の大国神
松島神社の概要
松島神社は、中央区日本橋蛎殻町にある神社です。松島神社の創建年代は不詳ですが、口伝によると鎌倉時代の元享(1321)以前に、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請したと推測されています。天正13年(1585)に邸宅を公開した際、島内が松樹鬱蒼としていたことから松島稲荷大明神と称され、江戸時代に当地付近が松島町と名付けられたといい、明治7年には松島稲荷神社として村社に列格していたといいます。日本橋七福神の大国神です。
社号 | 松島神社 |
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祭神 | 稲荷大神、伊邪那岐大神、日前大神(天照大神)、北野大神(菅原道真公)、手置帆負神、彦狭知神、淡島大神、八幡大神、猿田彦神、琴平大神、天日鷲神(大鳥大神)、大宮能売神(おかめさま)、大国主神(だいこくさま) |
相殿 | - |
境内社 | 銀杏稲荷神社 |
住所 | 中央区日本橋人形町2-15-2松島ビル |
備考 | 村社、日本橋七福神の大国神、別称大鳥神社 |
松島神社の由緒
松島神社の創建年代は不詳ですが、口伝によると鎌倉時代の元享(1321)以前に、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請したと推測されています。天正13年(1585)に邸宅を公開した際、島内が松樹鬱蒼としていたことから松島稲荷大明神と称され、江戸時代に当地付近が松島町と名付けられたといい、明治7年には松島稲荷神社として村社に列格していたといいます。
松島神社由緒書による松島神社の由緒
江戸時代の国学者賀茂馬淵翁が元文2年(1737)11月14日より松島稲荷社に寄宿され、当社に於いて神の道を説かれたと「賀茂馬淵翁伝新資料91頁」に記されているが、社記類は大震災と戦災によってすべて灰塵に帰してしまっているので、創立年月日は詳らかでないが、口伝によると鎌倉時代の元享(1321)以前と推測される。
昔この辺りが入り海であった頃小島があり、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、夜毎揚げる燈火を目標に舟人が航海の安産を得たと伝えられる。
正中元年(1324)3月2日夜刻三男柴田権太に百難救助すべしとの神示があり、霊験自在円満の感応あり其の奇得を遠近の諸人が信仰し、これにより正一位稲荷大明神の位記を奉らる。
天正13年(1585)2月13日住民の希望に従い、邸宅を公開し参拝の自由を許容せり。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、又、権太の木像を安置し権太大明神とも俗称された。
(神社本庁明細)
正徳3年(1713)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時近辺を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められてそのまま住まいを構え、町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が14柱と多い。
明治7年4月2日松島稲荷神社の名称を以って村社に列格される。
大正5年6月10日松島神社と改称。
昭和8年2月1日都市計画法の実施に伴い蛎殻町4丁目に改称せられ、その為松島町は消滅する。(松島神社由緒書より)
日本橋七福神めぐりガイドによる松島神社の由緒
明暦の大火前、大鳥神社の周囲は歓楽街であり、人形細工の職人、呉服商人、歌舞伎役者、葭町の芸妓傾城など、芸能関係や庶民の参拝が盛んでした。11月の酉の市がそのしるしです。(日本橋七福神めぐりガイドより)
「中央区史」による松島神社の由緒
松島神社(日本橋蛎殻町四の一)
創祀の年月は元亨以前と伝えられ、神霊の勧請は天正十三年である。はじめ、下総国から当地へ、現宮司柴田家の先祖が来り、邸内に社殿を造営しこれに常夜燈を掲げて東京内湾海路の目標としたことが社伝にのこっている。明治七年四月二日村社に列せられたが、当時の社地は中の橋に近く今の都電通り、旧松島町四十六番地にあった。大正十二年震災に焼失してから旧松島町四十七番地に相当する現在地に社殿の竣工をみたのは大正十三年である。次いで昭和二十年三月戦火に罹災したが戦後いちはやく本殿・祖霊殿・社務所・祭器庫等の復興に着手し境内も漸次整備し今日に至る。その間昭和二十一年社号松島稲荷大社を現在のように改めた。同社は俗に「人形町お酉さま」とも称し、毎年十一月酉の日にはいわゆる酉の市で繁華雑沓をきわめたが、最近で昔年のごとき盛況さはみられない。明治三年頃までの氏子圏は広大なものがあり、神輿・獅子頭・枝鈴などをかつぎ廻る産子場の地主は千人に達し、浜町河岸から日本橋方面にもおよんだ、現在の氏子は人形町一丁目および蠣殻町四丁目の三百五十人である。敷地坪数四十五坪二合二勺、建物坪数十四坪二合五勺。毎年五月十五日に例祭を執行する。(「中央区史」より)
東京都神社名鑑による松島神社の由緒
創立の年代は、詳らかではないが、往昔、このところが島であった。元亨(一三二一-二四〕以前に奉斎したと伝える。天正十三年(一五七三)二月十三日全島の鎮守神と定め、松樹の繁茂するなかに鎮座するので、松島稲荷大明神と唱えた。正徳三年(一七一一)地名を社号にちなみ松島村と称した。周辺を埋立て、大名屋敷を造営するために、地方から上京した、大工、左官、家具職人どもが住みついて、水子の霊を蛭子社に合祀して、慰霊のために布切れ、土又は木片などで、這子や乳児の形を作つてお供えした。善右衛門、勘兵衛、清右衛門、利衛門等々人形師がでたので、人形の町のお稲荷さん、人形町のおとりさまと称して尊崇するものもある。(東京都神社名鑑より)
松島神社の周辺図