新川大神宮|慶光院周清上人が邸内に創祀
新川大神宮の概要
新川大神宮は、中央区新川にある神社です。新川大神宮は、慶光院周清上人が寛永2年(1625)徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遥拝所として創祀、其後明暦3年(1657)江戸の大火で類焼したので、霊岸島に替地を賜り万治元年(1659)勧請したといいます。酒問屋の信仰が篤く、第二次世界大戦で罹災後も、昭和27年に全国の酒問屋からの協賛を得て再建したといいます。
社号 | 新川大神宮 |
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祭神 | 天照大御神、豊受大御神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 中央区新川1-8-17 |
祭日 | - |
備考 | - |
新川大神宮の由緒
新川大神宮は、慶光院周清上人が寛永2年(1625)徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遥拝所として創祀、其後明暦3年(1657)江戸の大火で類焼したので、霊岸島に替地を賜り万治元年(1659)勧請したといいます。酒問屋の信仰が篤く、第二次世界大戦で罹災後も、昭和27年に全国の酒問屋からの協賛を得て再建したといいます。
「中央区史」による新川大神宮の由緒
城内紅葉山より勧請、南北新川を開さくし新川神宮と称した。明治初年天祖神社と改称、昭和三〇年二月二五日旧称に復し、今日に至る。崇敬者五百人。(「中央区史」より)
東京都神社名鑑による新川大神宮の由緒
往古、江戸城内紅葉山に伊勢神宮の御分霊を奉斎し社殿創立。万治元年(一六五八)この地に勧請。隅田川に通ずる水路(新川)を開いて、新川大神宮と称したが、明治初年天祖神社と改称、昭和三十年三月新川大神宮と改称する。(東京都神社名鑑より)
境内掲示による新川大神宮の由緒
新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧慶光院所蔵古文書「慶光院由緒」並に江戸名所図会に詳しい。
当宮は慶光院周清上人が寛永2年(1625)徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遥拝所を設けられたのに始まり、其後明暦3年(1657)江戸の大火で類焼したので、この年替地を霊岸島に賜り社殿を造営、以来実に三百年を経た。
爾来当地は河村瑞軒が隅田川に通ずる水路を開いて舟揖の便に利するに至って新川と称し、当宮を中心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。
当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を聚め、特に酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くとこれが初穂を神前に献じ、然る後初めて販売に供した。
明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉斎し来ったが、昭和20年3月9日の戦災に罹り社殿を烏有に帰した。
その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び往時の繁栄を回復しつつあるのは全く当宮御神威の賜ものである。
偶々昭和27年が講和条約発効独立回復の年に当る故を以って、酒問屋有志は深く当宮の御神威を景仰し感激措く能わず、即ち社殿の再建を発起し、広く協賛を全国同業者に求めて同年5月7日地鎮祭、9月5日上棟祭、10月17日竣工遷宮並に例大祭を執行、聊か神慮に応え奉り、敬神崇祖の微哀を捧げた次第である。
茲に当宮再建の由来を記し、同業協賛の美挙を載せて後世に伝えるものである。(昭和27年10月17日)
「東京名所図会」による新川大神宮の由緒
新川太神宮
新川太神宮は。南新河岸に在り。神殿大ならざるも。新築にしていと清浄なり。もと前岸即ち靈巌島四日市町に在りて。地域も廣く。拝殿等ありたり。宜しく江戸名所図會載する所の図を参看すべし。同書に。伊勢太神宮と題して云。靈巌島四日市町にあり。此地の産土神とす。伊勢内外兩皇太神宮を勧請し奉り。遥拝所とす。遷宮伊勢と同年なり。(江戸砂子には寳永中草創とあり)伊勢内宮の社僧慶光院比丘尼参府の折柄。旅亭の儲の為に此地を給ふとぞ。
慶光院伊勢上人は。格式御門跡並に比せられ。紫衣を賜はりて御朱印地なり。始祀の比丘尼は。内宮建立の時より連綿として社僧たり。依て内宮の御師山本太夫は。始祀慶光院の子孫なる故に。今も彼寺の住持比丘尼は。代々この家より嗣侍るとなり。
按に明暦の江戸絵図に。今所謂三の御丸の地に。伊勢上人の屋舗としるせし所あり。此上人の旅宿なるべし。後に此所に遷させられしならん。(「東京名所図会」より)
新川大神宮の周辺図