亀島山玉円寺|中央区八丁堀
玉円寺の概要
浄土真宗系単立寺院の玉円寺は、亀島山と号します。玉円寺の創建年代は不詳ですが、かつて亀島山と称する真言宗の精舎があり、僧慈専(俗名本多兵部保則)が当山住職となった節浄土真宗に改めたといいます。明治維新後荒廃した当寺を第十六世慈愍師が明治15年八丁堀3丁目から当地へ移転・再建したといいます。
山号 | 亀島山 |
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院号 | - |
寺号 | 玉円寺 |
住所 | 中央区八丁堀1-8-3 |
宗派 | 浄土真宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
玉円寺の縁起
玉円寺の創建年代は不詳ですが、かつて亀島山と称する真言宗の精舎があり、僧慈専(俗名本多兵部保則)が当山住職となった節浄土真宗に改めたといいます。明治維新後荒廃した当寺を第十六世慈愍師が明治15年八丁堀3丁目から当地へ移転・再建したといいます。
「中央区史」による玉円寺の縁起
亀島山 玉円寺
真宗大谷派に属する。もと真言宗の精舎であったが寛永七年浄土真宗大谷派の末寺となった。江戸八丁堀七不思議の一つ。中央・江東両区内に壇信徒二五四人を有する。(「中央区史」より)
「東京名所図会」による玉円寺の縁起
玉圓寺
玉圓寺は岡崎町一丁目三十九、四十番地に在り、真宗大谷派本願寺の末寺とす。縁起云、昔は當所亀島に住而亀島山と稱し、真言宗の精舎也、然に俗名本多兵部保則と云者、大和國出生而出家し而、法名慈専と號す、太永三年當國に下り、當山に住職す、同四年、古郷の本尊、跡を尋来り給ふ。茲に保則不思議の思を生而、安置し奉り、今に傳来の阿弥陀如来是也。抑斯御本尊者、長和三年夏之頃、本多保則先祖え、恵心僧都より被下所之御作之御木佛也。其後天文十八年、古郷に帰り、澄如上人の御教化を受、御弟子と成り、帰国之砌、五百代本尊被下候、夫より二十七年過、天正四丙子歳之春、慈専大阪に登り前、御機嫌を窺ひ上り帰るに、顕如上人御気色之餘り、御教化有之、復二十八年を歴而面慶長八癸卯年二月十六日、關東より御帰洛之節、教如上人の供奉仕上京す。帰国之折、慈専へ寺號玉圓寺と御免被成下、(中略)寺號御免より二十八年後、寛永七午歳、浄土真宗本願寺末寺と成、云々。」寛永の絵図を見るに、此界隈や、悉く寺地なり。然るに後年に及ひで、漸次、他所へ退轉せしめられ、跡地は、組屋敷を置かれ、並に市廛を開かれき。されど當山は、由緒ある古刹なればとて、永く八丁堀に寺礎を保存すべく允許されきとなむ。今、岡崎町二丁目十三番地の所たり。舊幕府瓦解の後は、漸く荒廃に帰せしを、先住、第十六世慈愍師は、未だ幼年なりしも、いたく之を嘆じ、専ら力を維持方策に盡し、明治十五年十一月、舊組同心神田周辺の宅址、賈拂となれるを、世話方と協議の末、之をしも譲受けて、移轉したるもの、即ち、現今當山の所在地たり。連日法話あり、傳道布教す。信徒のみにて墓地を有せず。(「東京名所図会」より)
玉円寺の周辺図