大安楽寺|牢屋敷跡だった当地に高野山を招請、江戸三十三観音霊場
大安楽寺の概要
高野山真言宗の大安楽寺は、新高野山と号します。大安楽寺は、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かなかったことから、大倉喜八郎と安田善次郎が土地を寄進して、両氏の名(「大」と「安」)より大安楽寺と号して明治15年に創建したといいます。高野山より弘法大師の像を遷座したことに因み新高野山と号したといいます。高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。
山号 | 新高野山 |
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院号 | - |
寺号 | 大安楽寺 |
住所 | 中央区日本橋小伝馬町3-5 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
大安楽寺の縁起
大安楽寺は、牢屋敷跡だった当地に誰も住み着かなかったことから、大倉喜八郎と安田善次郎が土地を寄進して、両氏の名(「大」と「安」)より大安楽寺と号して明治15年に創建したといいます。高野山より弘法大師の像を遷座したことに因み新高野山と号したといいます。高野山の準別格本山で、江戸三十三観音霊場の5番札所です。
「中央区史」による大安楽寺の縁起
大安楽寺(日本橋小伝馬町一の三)
旧牢獄址にあって新高野山と号する真言宗の堂宇で世人あるいは高野山とも通称している。明治八年五月小伝馬上町の牢舎が廃止されて以来久しく空地となり荒れるに任せた。東京府がここを小遊園と名づけ今日の公園のようにしたが、市民は不浄地とよんで入る者がなく、かつ当時火災の際ここに什具を運び込んだが悉く延焼する等のことがあり、ますます人々の畏懼するところとなり、大倉、安田両人がこの払下げをうけた後も借入れようとする者がなかった。
当院創建の由来は、明治初年開基山階俊海が牢屋敷址に寺院を建設し弔う者もない無縁の幽魂を慰め、一つには不浄地を浄地と化して四隣の繁栄を希い東京府庁にこれを請願したのによる。同八年から市内に勧進し明治十五年十一月一宇を建立し紀州高野山から弘法大師像を遷してこれを安置した。本区のごとき市中繁華の巷に寺院の新設は容易に許さるべきでなかったが、その地の特殊事情を考慮して寺院を土蔵造りにする条件をつけて許可されたものである。発願者は大倉喜八郎・安田善次郎ほか数名でこの地がもと大倉、安田両氏の所有であったところからその頭字をとって寺号としたのである。寺内にもと運慶作の八臂弁財天女があり身丈二尺三寸、総丈四尺あり、相州江の島にあって北条家の信仰も浅くなかったといわれ、その腹籠は弘法大師作と相伝える天女像である。他に大阪城に安置してあった身長五尺の福徳大徳天像・兆殿司筆の涅槃像・覚鑁上人筆の不動像・中将姫作と伝える三尊来迎弥陀等があった。(「中央区史」より)
東京名所図会による大安楽寺の縁起
新高野山大安楽寺
新高野山大安楽寺は。牢屋敷最初の建設にして。南の方に在りて東に面せり。土蔵造りにして。右に僧坊の玄關あり。ここに弘法大師の扁額を掲けたり。(金色銭を以て文字を編成す施主秋田いととあり)地域は四百坪を有す。
明治十五年十月二日。東京府廰の許可を得て造營し。同十六年六月二十八日。高野山より弘法大師の像を遷座せり。發願者は現住職山科俊海師にして。發起人は大蔵喜八郎、安田善次郎外数名なり。此地(二十二番地全域)もと大蔵安田兩氏の所有にて。此際發起人に署名せしを以て兩氏苗字の頭字を取り。楽の字を加へて。大安楽寺と稱し。高野山より遷したるを以て。新高野山と號すといふ。
堂内に安置せる辨財天は。江島の本尊にして。運慶の作に係り。最も美術の上乗を極めしものなり。今其の由来を聞くに。明治の初年神佛分離の際。他に轉移し。遂に當時三井物産社長たりし坪内安久氏の手に歸したり。氏は更に之を海外に賣らむとして。其の約巳に成りしが。俄かに病に罹れり。是より先き家族中に死亡せる者あり。因て推査せしに。此の本尊を賣賈せし者は悉く死亡したるを知り。悚然として悔心を生し。違約金を出して之を當寺に納めたり。今存する縁起の一大冊子は。同氏の調査せる所なりといふ。此事は同寺訪問の際俊海師親しく記者に語られたり。
堂内又大黒天の大像を安置す。是はもと大阪城にありし者なりとの傳説あり。
境内に小家ありて。観世音を刻したる石碑を建つ。傍に老柳あり。是そ舊囚獄の断頭場の跡なり。
庭前に石燈籠あり。明暦三丁酉の文字を認む。東京市中にては古物に属せり。是は他より移せしものなりといふ。(東京名所図会より)
大安楽寺の周辺図