大観音寺|中央区日本橋人形町にある聖観音宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

大観音寺|昭和新撰江戸三十三観音霊場

大観音寺の概要

聖観音宗寺院の大観音寺は、明治13年当地に創建したといいます。本尊の銅仏は、北条政子が井戸から掘り出した古鐵の正観音の御髻から霊験を得て、鎌倉に創建した新清水寺に祀られていたものだといい、昭和新撰江戸三十三観音霊場3番霊場、東京都指定有形文化財となっています。

大観音寺
大観音寺の概要
山号 -
院号 -
寺号 大観音寺
住所 中央区日本橋人形町1-18-9
宗派 聖観音宗
葬儀・墓地 -
備考 昭和新撰江戸三十三観音霊場3番霊場



大観音寺の縁起

大観音寺は、明治13年当地に創建したといいます。本尊の銅仏は、北条政子が井戸から掘り出した古鐵の正観音の御髻から霊験を得て、鎌倉に創建した新清水寺に祀られていたものだといいます。

「中央区史」による大観音寺の縁起

大観音寺(日本橋人形町二の三)聖観音宗に属し、人形町大観音の別称は、御前立大観音像に、所在地の人形町を冠して世人が通称したのによる。本尊は丈五尺あまりの首像で青銅の蓮台上に鎮り、作者は高麗名工というが、もと源頼朝の守護仏でその室政子の創立にかゝる寿福寺とともに鎌倉屈指の霊場であった扇ヶ谷清水寺の本尊であった。明治元年三月、神仏分離の法令が布告され、この首像も鎌倉八幡宮の所有と誤られ破却されようとしたとき、明治六年石田可村、山本卯助の両人が搬出して深川御船蔵前の河岸に陸上げし、明治九年にいたり人形町通り蠣殻町二丁目に仮堂をいとなみ、さらに同十三年二月許可を受けて、間口五間五尺五寸奥行六間四層楼の大悲閣を建立して正遷座を執行した。これより堂宇経営の基礎漸く調い、信徒の詣る者も日々に加わったが、大正大震災による劫火によって、たちまち堂宇は灰燼に帰した。以来本尊は日鮮会館の屋上に仮安置され、昭和十五年十月十七日堂容を新にし、同時に大震火災に頽れた御前立像の再鋳を行った。
本尊とともに不動明王・文殊菩薩・馬頭観世音菩薩・地蔵菩薩・薬師如来・荼枳尼夭・毘沙門天の像が安置されている。正月・五月・九月の各十七日には大護摩を執行し、毎月十七日には本尊開扉を行う。(「中央区史」より)

東京名所図会による大観音寺の縁起

観音堂
観音堂は。蛎殻町二丁目十四番地に在り。大観音と通稱するもの是なり。本尊は銅佛にして。明治の初年相模國鎌倉より東京に移し。當時は本所安宅に安置せしが。後に扇橋に轉座し。十三年に至り更に此處に移したり。参詣者常に多く。毎月十七十八日の兩日は殊に賑へり。其の縁起は左の如し。
東京人形町正観音略縁起
抑當古鐵正観音は昔し鎌倉幕府の時源頼朝公戦争中令室政子の方井中より古鐵の正観音の御髻を感得し玉ひ諸願成就を祈に霊験あたらかにして遂に天下をのつとる依之公の命を以て幕下の諸士銅像丈六観音を鋳造して御髻を奥院に安置し伽藍を建立して新清水と稱し鎌倉第一の霊場たり然るに明治維新に際して廃寺となりぬ茲に二人の奸商あり右の兩像を購求し賣品として利益を貪らん事を計り當地へ運漕せしに不思議なる哉海中俄に暴風起り舟中にて右二商人の踪跡を失し兩像を載せたる船のみ深川の海岸に漂泊しぬ見聞の諸人奇異の思をなし暫らく深川區に兩像を安置し奉りしに往詣利益を蒙むるもの擧て数へがたし因茲明治十三年中官許を得て人形町に假堂を建立したるに改て今般楼閣を新築して右御髻を安置す誠に大悲救世の御髻ひ虚からず信心の輩奥院御影を拝し結縁せらるべし
東京人形町(東京名所図会より)

大観音寺所蔵の文化財

  • 鉄造菩薩頭(東京都指定有形文化財)

鉄造菩薩頭

この菩薩頭は鋳鉄製で、総高170cm、面幅54cm。頭頂部のみは後に補修された鋳銅製。頭上には53cmの高髻があり、後補の鋳銅製蓮華座に乗っています。
この像は、もと鎌倉の新清水寺にあった観音堂でしたが、鎌倉時代の火災で崩れてしまいました。江戸時代に頭部が鶴岡八幡宮の鉄井から掘り出され、明治初年の神仏分離の令に際し鎌倉から移され、明治9年(1876)大観音寺に安置されています。以後、本尊として今日に至りました。毎月17日に開帳され、信仰を集めています。
中世造立になる関東特有のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品で、昭和47年4月、都指定有形文化財に指定されています。(東京都教育委員会掲示より)


大観音寺の周辺図