鶴羽根神社。広島県広島市東区の神社
鶴羽根神社の概要
鶴羽根神社は、広島県広島市東区にある神社です。鶴羽根神社は、源頼政の室菖蒲の前が西条に落ち延び、菖蒲の前の遺志により、家臣池田左衛門が当神社を創建、修理料として椎木を付けたので椎木八幡宮と称したといいます。池田家が代々社掌を務めてきたものの断絶、江戸期には明星院が社務を奉仕、明星院の鎮守社として祀られていました。明治維新後に明星院より分離、明治5年鶴羽根神社と称し、村社に列格、明治40年神饌幣帛料供進社に指定されていました。
社号 | 鶴羽根神社 |
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祭神 | 品陀和気命、帯仲津日子命、息長帯日売命、伊邪那岐命、伊邪那美命 |
相殿 | - |
境内社 | 椎木稲荷神社(朝桜神社)・地主大明神・八十吉大明神 |
祭日 | 10月29日 |
住所 | 広島市東区二葉の里3-5-11 |
備考 | - |
鶴羽根神社の由緒
鶴羽根神社は、源頼政の室菖蒲の前が西条に落ち延び、菖蒲の前の遺志により、家臣池田左衛門が当神社を創建、修理料として椎木を付けたので椎木八幡宮と称したといいます。池田家が代々社掌を務めてきたものの断絶、江戸期には明星院が社務を奉仕、明星院の鎮守社として祀られていました。明治維新後に明星院より分離、明治5年鶴羽根神社と称し、村社に列格、明治40年神饌幣帛料供進社に指定されていました。
境内掲示による鶴羽根神社の由緒
鎌倉時代、二葉山麓に建立された椎の木八幡宮がその前身といわれ、江戸初期に明星院の鎮守社となった。
天保6年(1835)に現在地に移り、社殿を再興した。
明治元年(1868)に明星院より独立し、その後、鶴羽根八幡宮、ついで鶴羽根神社と名を改めた。
その由来は、二葉山があたかも羽根を広げた鶴に似ていることで名付けたといわれている。(二葉の里歴史の散歩道掲示より)
「広島縣神社誌」による鶴羽根神社の由緒
源頼政の室の菖蒲の前が賀茂郡西条郷(現、東広島市西条町)に落ち延び、その没後に遺志により元久年間(一二〇四‐六)家臣池田左衛門が当神社を創建し、修理料として椎木を付けたので椎木八幡宮と称した。その後、元亨年間(一三二一‐四)に火災に遭い、また後の戦乱により荒廃したが、近世になって復興された。天保四年(一八三三) 二月十二日、明星院より出火して類焼し、同六年に現在地に遷座して社殿を再興した。旧鎮座地は饒津神社の境内地の一部となっている。明治二年に鶴羽根八幡宮、同五年に鶴羽根神社と改称した。(「広島縣神社誌」より)
「廣島市史社寺史」による鶴羽根神社の由緒
鶴羽根神社
鶴羽根神社は大須賀町に在り、境内千三百七拾九坪、祭神は帶中津日子命・邑陀和気命・息長帯日賣命なり、社傳に據れば、建久年間、源三位賴政の室菖蒲の前、藝州賀茂郡西條郷を領す、歿後其遺志に基づき、元久年間(土御門天皇の治世)家臣池田左衛門なるもの當社を創建し、修理の料として、椎ノ木山を寄附せられ、椎ノ木木八幡宮と稱す、是より池田氏の子孫代々神職となれり、其後ち元享年間、當社祝融の災に罹り、再建せしと雖も、海内兵亂相繼ぎ、社運益々衰微し、終に一小祠となる、又萬治二年池田丹後守の歿するに至り、家名斷絶し、數年の間、神職なかりしかば、明星院より社務を奉仕し、終に同院の鎮守社となれり、寛文三年同院に於て野上長門正重をして専ら社務を掌らしめてより、其子孫代々祠官となる、然るに文政五年六代目野上美濃の時に至り、故ありて其職を辭し、同七年石井要人(後ち眞澄と改む)祠官となる、天保四年二月十二日の夜、明星院鎮國堂より出火し、社殿悉く類焼し、四月假殿落成して遷座せしが、後ち饒津神社造營を仰せ出され、同六年現今の地に移り(もとは饒津神社一の鳥居と二の鳥居との間の西側に在り)社殿を再建す、是時藩主より金五拾兩を寄附せらる、明治元年十二月神佛混淆引分の際、明星院より分離し、翌年正月鶴羽根八幡宮と改稱し、次で同五年十一月鶴羽根神社と改め、村社に列し、明治四十年二月一日神饌幣帛料供進社に指定せらる、毎歳十月二十九日を例祭日となし、四月十五日を春季祭日となす、(「廣島市史社寺史」より)
鶴羽根神社の周辺図
参考資料
- 「広島縣神社誌」
- 「廣島市史社寺史」