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白神社。広島県広島市中区の神社

白神社の概要

白神社は、広島県広島市中区にある神社です。白神社は、この近辺が海だった16世紀に(岩礁との衝突を避けるために目印として)白い紙をつけていた岩礁に小祠を建立して「白神」と称していたといいます。毛利家・福島家が広島を領有していた頃には広島の総鎮守として崇敬を受け、浅野家に代わってからは広島の中部の鎮守として年200石の寄付を受けていました。明治6年郷社に列格、昭和20年被爆により焼失、昭和30年に再建したと言います。

白神社
白神社の概要
社号 白神社
祭神 菊理姫命
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 広島県広島市中区中町7−24
備考 -



白神社の由緒

白神社は、この近辺が海だった16世紀に(岩礁との衝突を避けるために目印として)白い紙をつけていた岩礁に小祠を建立して「白神」と称していたといいます。毛利家・福島家が広島を領有していた頃には広島の総鎮守として崇敬を受け、浅野家に代わってからは広島の中部の鎮守として年200石の寄付を受けていました。明治6年郷社に列格、昭和20年被爆により焼失、昭和30年に再建したと言います。

境内掲示による白神社の由緒

白神社
このあたりは、16世紀頃まで海であり、船がしばしば海面につきでた岩礁に衝突し遭難したので、船人は岩上に白い紙を立て、船の安全をはかる目印にしていた。その後、ここに小祠を建て”白神”と称し、毛利・福島時代には広島の総鎮守として住民から尊崇されていた。昭和20年8月6日の原爆により神社は焼失し、同30年12月に再建された。(境内掲示より)

「廣島市史社寺史」による白神社の由緒

白神社
白神社は本市の中央なる小町に在り、境内は五百四十六坪四合三勺(知新集には境内表二十一間、裏にて十七間半、三十五間二尺餘とあり、明治の代となりて、或は増し或は減じ、明治四十五年六月にては電鐡軌道敷設の爲め、更に一部(三十四坪九合七勺)を道路に編入せらる、)あり、相傳ふ、此地往古は海中の礁砠にて、潮汐の干満に依り、岩礁出沒し、舟行甚だ危嶮なり、因りて礁上に白木を立て、白紙を附して舟行を警めしが、其後天文三年大友時盛と云ふもの小祠を巌上に建て、白紙の因縁を以て、始めて社號を白神と稱するに至れりと、今も正殿は高く巨巌の上に構え、附近は怪岩壘積して、さすがに舊時の光景を偲ばしむるものあり、天正十九年九月毛利輝元新たに本社を建立し、慶長九年四月に福島正則より社殿再築あり、其後淺野氏時代に至りては、寛永七年藩主長晟より鳥居・玉垣・大門・大手塀・番所等を建立せられ、又同十九年藩主光晟より社殿修營の命あり、正保二年・萬治三年重修する所ありしが、寶暦八年四月四日の大火に炎上し、同十二年八月再建あり、祭神を菊理姫命と云ふ、慶長十一年祠官内田土佐京師に上り、神名を吉田家に請ひしかば、加賀國白山の神靈に同じければとて、此神號を附せらる、もと廣島城下の總産土神なりしが、後には東部は明星院八幡宮(今の鶴羽根神社)西部は空鞘神社に屬し、中部に於ける二十四箇町(白神組十三箇町中通組十一箇町)と、國泰寺村(今の國泰寺町)六町目村(今の大手町七、八、九丁目の地)の二箇村との産土神と爲れり、明治六年二月郷社に列せらる、域内清浄にして、樹石も亦た少し、然れども正殿の所在は、樹老い、苔石滑にして、中にも三角形の巨石(高さ七尺二寸底邊一丈五尺)と榎樹(周圍目通り九尺八寸)及拝殿右側の松の大樹(周圍目通り一丈一尺餘)は、殊に目立ちて神域の荘巌を加へり、
社領は、毛利輝元より男子秀就の産土詣りに依りて、文禄四年初めて社禄の寄附あり、福島氏入國の後は減石せしも、淺野氏時代となりては、歴代藩主の崇敬淺からず、毎歳米二百石を寄附せられたり、(「廣島市史社寺史」より)


白神社の周辺図


参考資料

  • 「廣島市史」