日通寺。広島県広島市東区にある法華宗陣門流寺院

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日通寺。広島県広島市東区にある法華宗陣門流寺院

日通寺の概要

法華宗陣門流寺院の日通寺は、英心山と号します。日通寺は、法華宗に対する不受不施派への禁令があった江戸時代に、藩主家の菩提寺を法華宗国前寺から天台宗寺院へ変えざるを得なくなった際に、賀茂郡国近村にあった陀法山東松院阿彌陀寺を当地へ移転させ、夫人前田氏の法謚自昌院英心日妙と前藩主綱晟の法謚天心院徹性日通から天台宗・英心山日通寺と称したといいます。元禄12年(1699)法華宗へ改め、日祟が中興開基となったといいます。国前寺が藩より受けていた200石の寺領も当寺が継ぎ、江戸期には藩内における法華宗の觸頭として繁栄していました。

日通寺
日通寺の概要
山号 英心山
院号 -
寺号 日通寺
本尊 -
住所 広島市東区牛田新町1−3
宗派 法華宗陣門流
葬儀・墓地 -
備考 -



日通寺の縁起

日通寺は、法華宗に対する不受不施派への禁令があった江戸時代に、藩主家の菩提寺を法華宗国前寺から天台宗寺院へ変えざるを得なくなった際に、賀茂郡国近村にあった陀法山東松院阿彌陀寺(寛正年間1461-1466創建)を当地へ移転させ、夫人前田氏の法謚自昌院英心日妙と前藩主綱晟の法謚天心院徹性日通から天台宗・英心山日通寺と称したといいます。しかしながら広島藩主浅野綱長は、法華宗寺院としたかったことから、住職日祟も(本成寺別院の)丸山本妙寺で修業、幕府の許しを得て元禄12年(1699)法華宗勝劣派本成寺の末寺へと改めて、日祟が中興開基となったといいます。国前寺が藩より受けていた200石の寺領も当寺が継ぎ、藩内における法華宗の觸頭として繁栄したものの、明治維新後は檀家も少なく寺運が衰えたといいます。

「廣島市史社寺史」による日通寺の縁起

日通寺は英心山と號し、安藝郡牛田村新山に在り、本尊は中央寶塔南無妙法蓮華經・左多寶如来・右釋迦牟尼佛なり、藩制時代には寺領二百石を附せられ、廣島城下法華宗勝劣派五箇寺(本照寺、長久寺、長遠寺、妙詠寺、本運寺)の觸頭たり、當寺往古は天台宗陀法山東松院阿彌陀寺と號し、寛正年間の開基にして、賀茂郡國近村にありしが、元禄五年此地に移さる、是より先き寛文十三年藩主淺野綱晟は江戸に於て逝去せられ、遺骸を安藝郡新山に歛められ、其後二十年間、尾長村法華宗國前寺より番僧を附置せしが、元禄四年幕府より不受不施派を禁止するに及び同五年藩府は國前寺を以て其流を酌むものと認め、其寺領二百石を停止し、又前藩主光晟の夫人前田氏(加賀御前と稱す)天台宗に改宗せんとの志あり、然るに當時廣島城下に於て菩提所とすべき天台宗の寺院なかりしかば、遍く之を諸郡中に求めけるに、かの賀茂郡阿彌陀寺は往昔末寺も十二箇寺を有せし大伽藍なりしも、後ち漸く衰頽し、殊に福島氏の時より寺領は貢祖地となり、尋で無住となり、堂塔は益、大破し、僅に本堂のみを存せしかば、之を取りて此處に移し、元禄七年七月寺堂建立の工を起し、夫人前田氏の法謚自昌院英心日妙と前藩主綱晟の法謚天心院徹性日通の文字を取り、英心山・日通寺と改稱し、國前寺にある綱晟の尊牌、浄心院(光晟の二男三次支藩主長治の養子)清凉院(綱晟の女)の兩廟をも此寺に移し、以て藩家の菩提寺と定められ、是より八年間、天台宗にて松榮寺の支配とし、新山了哲と云へる番僧を附せり、然るに元禄十二年七月藩主綱長は再び當寺の天台宗を改め、法華宗勝劣派越後國本成寺の末寺を爲さんと欲し、江戸丸山本妙寺に依頼し、幕府に請ひしに聴許あり、本成寺は殊に之を客末の格式に置けり、是より先き元禄七年もと國前寺日台の弟子日祟は本成寺の法義を信じて、江戸に赴き、本妙寺日養に師事し、同寺に滞留修業せしが、招かれて日通寺の住職となり、同年十二月日祟廣島に歸りて入寺し、中興の開基となれり、同八年四月三日入佛供養法會を行ひ、五月寺堂落成し、寺領二百石を附せらる、是に於て廣島城下の寺院一箇寺を増加し、既定數に超過せるを以て、廣島町組眞宗四十二箇寺の中、沼田郡(今の安佐郡の内)長東村蓮光寺(佛護寺十二坊の一)の町組を除き、日通寺を以て之に替へたり、後ち光晟の夫人前田氏(自昌院)藩主綱長(顯妙院)藩主斎粛(温徳院)の霊廟皆こゝに置かる、寺内に自昌院殿以来藩主其他の寄附せられし遺品・寶什甚だ多かりしが、今存するもの少し、明治維新の後、寺領幷に觸頭を廢止せられ、加ふるに檀家少數なるを以て、寺院の維持益々困難に陥り、堂塔も之を修繕するの資力なく、ひたすら風損雨蝕のまゝに委したれば、今は舊時の壮観を存せず、唯本堂(桁行五間梁行四間)本堂内陣(桁行三間梁行三間)寶蔵(桁行三間梁行二間)庫裡あるのみ、(「廣島市史社寺史」より)


日通寺の周辺図


参考資料

  • 「廣島市史社寺史」