平泉八坂神社。平泉町平泉祇園の神社

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平泉八坂神社。平泉の南方鎮守として創建

平泉八坂神社の概要

平泉八坂神社は、平泉町平泉祇園にある神社です。平泉八坂神社は、平泉の五方鎮守の神として藤原三衡の頃に創建した社の一つで、平泉の南方鎮守として、京都祇園八坂神社を模して建立されたといいます。南北朝時代に修験の僧都良珍が荒れた祇園社の再興、明治8年には社号を祇園社から八坂神社へ改称、村社に列格、大正11年には特別史跡に指定されました。

平泉八坂神社
平泉八坂神社の概要
社号 八坂神社
祭神 素戔嗚尊
相殿 櫛稲田媛命、五男三女八柱命
境内社 雷神社
祭日
住所 平泉町平泉祇園51
備考 -



平泉八坂神社の由緒

平泉八坂神社は、平泉の五方鎮守の神として藤原三衡の頃に創建した社の一つで、平泉の南方鎮守として、京都祇園八坂神社を模して建立されたといいます。南北朝時代に修験の僧都良珍が荒れた祇園社の再興、明治8年には社号を祇園社から八坂神社へ改称、村社に列格、大正11年には特別史跡に指定されました。

「岩手県神社名鑑」による平泉八坂神社の由緒

この社は平安の昔、藤原三衡の頃の創立にして、当時信仰のあつい京都の祇園社より勧請したもの。
毛越寺五方鎮守の一つであり、祇園会と称する年中恒例法会が盛大に催されていた。
南北朝時代は修騒の僧都良珍が荒れた祇園社の再興をはかり、疫病退散の祈祷場として人々の尊崇を得たと伝えられている。
江戸時代までを祇園宮と称し、明治八年(一八八五)の改革に伴ない八坂神社と改称し村社となる。
大正十一年(一九二二)十月、内務省告示第二七〇号により史跡指定を受け、更に昭和二十七年(一九五二)十一月、特別史跡となり今日に至る。(「岩手県神社名鑑」より)

「岩手県町村誌」による平泉八坂神社の由緒

(平泉村)
▲祇園社
昔時の南方鎮守にして洛陽の祇園を模せりといふ、今は村社となれり。(「岩手県町村誌」より)

境内掲示による平泉八坂神社の由緒

八坂神社御由緒
当社は平泉の南方に位し、東に束稲山を望み、西に太田川の清流をうけ、広く南方に展開する田園と集落の中に鎮座する。
この御社の起源は遠く平安の昔に遡る。今を去る八百五十余年前みちのくの地に一代王国を建設して君臨した藤原三代は、初代清衡が鎮護国家の道場として中尊寺を、二代基衡は毛越寺を、三代秀衡は無量光院をそれぞれ建立し、豪華絢爛たる黄金の平泉文化を築き上げた。
吾妻鏡(鎌倉幕府の日記体の記録)によれば、当時平泉の五方鎮守の神として、中央に惣社を、東に日吉白山、南に祇園社王子諸社、西に北野天神金峯山、北に今熊野稲荷などの社を祀ったと記されてあり、当社は記事中の「祇園社」にあたっている。
当社の鎮座様式等に関しては「平泉寺塔己下注文」中の鎮守事の一節に「悉以模本社之儀」とあり、又「年中恒例法会」の中には、六月に「祇園会」が盛大に催されたと記されてある。当時疫病退散の神として今日の都において特に信仰のあつかった祇園社を勧請して遷座されたものである。
嘉禄二年(一二二六年)に毛越寺が、建武四年(一三三七年)には中尊寺がそれぞれ火災の為焼失し、今に見る僅かな堂塔財宝を残すのみとなっていつしか衰微し、当社も鎮守の諸社と共に同じ運命を辿ったわけである。
しかし、南北朝時代に修験の僧都良珍が荒れた祇園社の再興をはかり、疫病流行に対する祈願の場として当社は多くの人々の崇敬を得たと伝えられている。
その後時代は下がり、江戸時代までを「祇園宮」と称したが、明治維新の改革に伴い明治八年四月に八坂神社と改称し村社に列せられる。
大正五年六月の例祭より神饌幣帛料供進の盛典に浴し、大正十一年十月十二日内務省告示第二百七十号により史跡指定を受け、更に昭和二十七年十一月二十二日特別史跡と成り今日に至るものである。(境内掲示より)


平泉八坂神社所蔵の文化財

  • 野外能樂殿(国指定重要文化財)

平泉八坂神社の周辺図


参考資料

  • 「岩手県神社名鑑」