奕葉山久昌寺。盛岡三十三観音2番・10番
久昌寺の概要
曹洞宗寺院の久昌寺は、奕葉山と号します。久昌寺は、祇陀寺奇山快秀和尚が隠棲していた際に、寛永5年(1628)頃に十一屋某者が小庵を建立し久昌庵と号したといいます。その後報思寺九世蘭翁嫩芝大和尚を勧請開山として、明暦2年(1656)奕葉山久昌寺と号したといいます。盛岡三十三観音2番・10番です。
山号 | 奕葉山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 久昌寺 |
住所 | 盛岡市大慈寺町1-5 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
久昌寺の縁起
久昌寺は、祇陀寺奇山快秀和尚が隠棲していた際に、寛永5年(1628)頃に十一屋某者が小庵を建立し久昌庵と号したといいます。その後報思寺九世蘭翁嫩芝大和尚を勧請開山として、明暦2年(1656)奕葉山久昌寺と号したといいます。
「盛岡の寺院」による久昌寺の縁起
当寺は、創建当初「久昌庵」という庵寺であった。この庵寺は、寛永元年(一六二四)から、寛永五年(一六二八)ごろ、祇陀寺(盛岡市大慈寺町三-一六)の奇山快秀和尚が、自ら世の忙事を避けておった時、十一屋某者(盛岡市下ノ橋町二-一二、十一屋高橋政祺氏先祖)が小室を造り、快秀和尚の閑居となし、久昌庵と号し帰依した。
快秀和尚は、たまたま、十一屋三代当主高橋祐吉と相談し、周囲の谷地を購い、新たに伽藍を建立し、布教法要に事欠かない道場とした。
明暦二年(一六五六)開山導師として、報思寺九世蘭翁嫩芝大和尚を勧請し、自ら二世大和尚として住職した。そのときから「奕葉山 久昌寺」と号した((十一屋所蔵古文書による)。
本尊は釈迦牟尼仏、脇侍は文珠菩薩、普賢菩薩である。(「盛岡の寺院」より)
久昌寺所蔵の文化財
- 「地蔵菩薩坐像一体(盛岡市指定文化財)
地蔵菩薩坐像一体
この像は木彫寄木造り漆箔彩色像であり、像容は地蔵菩薩の通形である声問形といわれる像の姿である。額には白毫がつき、眼は切付け猫眼。右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せる。右手は臂を曲げて施無畏印風に錫杖を握り、蓮華座に結跏趺坐する「矢田地蔵尊」の様式となっている。仏家における行道の形式である。左手掌上に宝珠を奉持するのは、古式の像容を継承するものであり、また写実的な表現の安阿弥様といわれるものを受け継いでいる。
このように、この像は中央仏師の儀軌(密教の儀礼・行法や図像に関する規則)に基いた本格的なもので、江戸初期以前に制作されたものと見られる貴重な文化財である。像高四三・五センチ。(盛岡市教育委員会掲示より)
久昌寺の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)