大分住吉神社。消失した瓜生島に鎮座していた社
大分住吉神社の概要
大分住吉神社は、大分市住吉町にある神社です。大分住吉神社は、天文元年(1533)大友二十代義鑑公が社殿を造営、瓜生島の沖の浜に鎮座していたといいます。夏山森紹庵の放火により焼失後、大友二十一代義鎮公(宗麟)が再建、天文14年(1545)島津義久の侵略により社殿全焼、西応寺境内に一の宮と称して祀られ続けていたものの、安永8年(1771)に住吉大社を改めて勧請、既存の御神体を合祀したといいます。
社号 | 住吉神社 |
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祭神 | 表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 7月27・28日 |
住所 | 大分市住吉町2-2 |
備考 | - |
大分住吉神社の由緒
大分住吉神社は、天文元年(1533)大友二十代義鑑公が社殿を造営、瓜生島の沖の浜に鎮座していたといいます。夏山森紹庵の放火により焼失後、大友二十一代義鎮公(宗麟)が再建、天文14年(1545)島津義久の侵略により社殿全焼、西応寺境内に一の宮と称して祀られ続けていたものの、安永8年(1771)に住吉大社を改めて勧請、既存の御神体を合祀したといいます。
境内掲示による大分住吉神社の由緒
一、天文元年(西暦一、五三三年)大友二十代義鑑公宮殿を造営し同年六月祭礼の式を初めて執行さる天文十一年六月二十八日神輿を海上に浮かべ船祭を執行す。
二、永禄元年(西暦一、五五八年)三月火災により焼失し程なく大友二十一代義鎮公(宗麟)再建豊後一の宮と稱し奉る。
天文十四年島津義久の兵火に罹り宮殿全焼寛文三年船祭再興
三、延宝四年(西暦一、六七三年)現在の宮地へ移し奉り年毎に神事を行ふ。
再度の火災により安永八年(西暦一、七七一年)元官幣大社住吉神社(現在大阪市住吉区住吉町)より神功皇后三韓征伐の砌り皇軍を守護し給える海上守護の三神(墨の江神)の和魂を勧請し奉り年久しく西應寺に鎮座せる御神体を合祀し四神を鎮祀し現在に至る(境内掲示より)
「大分市史」による大分住吉神社の由緒
住吉神社
勢家(仙石橋の西北畔)に在り、祭神は上筒男神、底筒男神、息帶姫神なり此社もと、瓜生島の沖の濱にありき、慶長元年の津浪の爲に新沖の濱に移したりしが永十年の夏山森紹庵なる者、屋形(大友宗麟)の命なりと稱し火を放ちて之を焼けり、大友義統其の不法を怒り紹庵を誅せんとすれど父義鎮(宗麟)聴さず、數日を經て紹庵病死す、時人皆神罰を蒙ると言へり、今の社殿は別に西應寺の境内に一の宮とて祠宇を營みありしを寛永二年國主竹中采女正重興の時此所に移し合祀し造營せしものにて境内廣く威徳寺の南方より西應寺の小路まで凡そ一丁餘方あり、毎年六月晦日の神事は頗る壮觀なりき。(「大分市史」より)
大分住吉神社の周辺図
参考資料
- 「大分県神社誌」 (大分縣大分市役所)