東応山龍鏡寺。一山一寧国師創建
龍鏡寺の概要
臨済宗建長寺派寺院の龍鏡寺は、東応山と号します。龍鏡寺は、元から来朝した寧一山国師が正安元年(1299)岩船山の裏山に創建したと伝えられます。永禄年間(1558-1570)兵火により荒廃したものの、佐野宗綱が元亀2年(1571)に再建、天正14年(1586)兵火により再度焼失したものの再建されたといいます。寧一山国師は、一山一寧国師とも言い、元の使者として正安元年(1299)に来朝、伊豆修善寺に幽閉されていましたが、赦されて後、鎌倉建長寺を再建して住持となり、その後鎌倉円覚寺、鎌倉浄智寺を歴任して京都南禅寺3世となった高僧です。
山号 | 東応山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 龍鏡寺 |
本尊 | - |
住所 | 栃木市岩舟町新里36 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
龍鏡寺の縁起
龍鏡寺は、元から来朝した寧一山国師が正安元年(1299)岩船山の裏山に創建したと伝えられます。永禄年間(1558-1570)兵火により荒廃したものの、佐野宗綱が元亀2年(1571)に再建、天正14年(1586)兵火により再度焼失したものの再建されたといいます。寧一山国師は、一山一寧国師とも言い、元の使者として正安元年(1299)に来朝、伊豆修善寺に幽閉されていましたが、赦されて後、鎌倉建長寺を再建して住持となり、その後鎌倉円覚寺、鎌倉浄智寺を歴任して京都南禅寺3世となった高僧です。
「岩舟町の歴史」による龍鏡寺の縁起
東応山龍鏡寺
臨済宗建長寺派に属し、寧一山国師が正安元年(一二九九)岩船山の裏山に創建したというが、この年は寧一山の元から来朝した年であるから、それを誤りつたえたものであろう。
むかし、寺の裏の山裾に温泉が湧いて諸病をなおしたが、永禄年中(一五五八~一五七〇)兵火にかかり、埋められてしまったといい伝え、いまも地名に「湧穴」「湯の地」「湯前」などがのこっている。
また、その温泉を中心に一部落をなしていたものが、これからのち、ここより移住して新しい集落を形成したのが、新里村であるともいっている。
元亀二年(一五七一)佐野宗綱により再建されたが、天正十四年(一五八六)ふたたび兵火にかかり焼失その後また再建した。
大般若経六十巻、狩野探幽画「達磨」作者不詳「ねはん図」が存在する。(「岩舟町の歴史」(岩舟町教育委員会)より)
龍鏡寺の周辺図