新田神社。川崎市川崎区渡田の神社

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

新田神社。新田義貞の家臣亘新左衛門源早勝所蔵の品を埋納して創祀

新田神社の概要

新田神社は、川崎市川崎区渡田にある神社です。新田神社は、新田義貞討死の後、その家臣亘新左衛門源早勝が、義貞公差添の名剣と七ツ入子の名鏡及び錦の陣羽織の三種の品を当地に持ち帰り、当地の里正がこれら三品を埋納して創祀、村内の鎮守社として崇敬したといいます。明治6年村社に列格、明治末年には渡田村内にあった、神明社(太神宮)、姥ヶ崎弁才天社(旧地鋼管通三丁目)、亘新左衛門源早勝を祀っていた御霊社を合祀したといいます。

新田神社
新田神社の概要
社号 新田神社
祭神 新田義貞公
相殿 天照大神、大国主神、市杵島媛神、宇迦之御魂神、亘新左衛門尉早勝
境内社 稲荷社、姥ヶ森弁財天社、神明社
祭日 例大祭7月第一土日曜日
住所 川崎市川崎区渡田2-14-8
備考 -



新田神社の由緒

新田神社は、新田義貞討死の後、その家臣亘新左衛門源早勝が、義貞公差添の名剣と七ツ入子の名鏡及び錦の陣羽織の三種の品を当地に持ち帰り、当地の里正がこれら三品を埋納して創祀、村内の鎮守社として崇敬したといいます。明治6年村社に列格、明治末年には渡田村内にあった、神明社(太神宮)、姥ヶ崎弁才天社(旧地鋼管通三丁目)、亘新左衛門源早勝を祀っていた御霊社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による新田神社の由緒

(渡田村)
太神宮
村の西にあり、本社東向にてわづかの宮造なり、覆屋二間に一間半前に鳥居を立、例祭年々六月十六日、村内成就院持。
弁天社
村の巽の方にあり、この地を姥ヶ森と唱ふ又近村にては森山ともいへる纔かなる社なり。
御靈社
村の西成就院の邊にあり、則この院の持なり。覆屋ありて内に小祠を置傳に云、此村は亘新左衛門早勝の舊領にして、早勝は永和三年七月二日卒す、村民舊恩を報せんとて宅地の跡に小祠を營み、早勝を御霊の宮と祝へり。
新田社
村の中央にあり、南向にて覆屋の内に小祠を置、神體は烏帽子素袍にて弓矢を持て馬上の形なり、左右に亘新左衛門粟生左衛門尉二人が像を彫刻せしあり、拝殿は三間半に二間、石の鳥居兩柱の間八尺、これも成就院持寺傳によるに新田左中将義貞平日肌を離さざりし九寸五分の名劔、并陣羽織、また手馴し七つ入子の明鏡を亘早勝泥中より取出して己が幽室に置しを、村民早勝に請求て清潔の地をえらみ村内土中に埋め、一邑擧て鎮守と崇め祀れりと云、祭禮は年々十月十日、神楽を奏す、これも成就院の持なり。(新編武蔵風土記稿より)

神奈川県神社誌による新田神社の由緒

社伝によれば、新田義貞公延元三年(一三三八)七月二日、越前国藤島に討死の際、その臣、亘新左衛門源早勝が、義貞公差添の名剣と七ツ入子の名鏡及び錦の陣羽織の三種の品を得て此の地に携え帰り、ひたすら冥福を祈って供養したという。然るに里正等公の徳を追慕し、其の三種の形見を早勝に乞い、清浄の地を求めて孤松の下に埋納し、廟を営んで新田大明神と崇め、此の地の鎮守とした。俚伝によれば毎年正月元日と七月二日の暁には軍馬の嘶く音することあり、河北矢口村に鎮座する庶子新田義興公の神霊、父霊のもとに来り給う故という。
家康入府の後、武人名士の信仰厚く、多くの祭田が寄進されている。例祭はもと七月二日、後十月十日、さらに現行の日に改められた。明治六年村社に列格、後幣帛料供進神社に指定され、戦禍により建物悉く焼失したが昭和三十一年社務所、同三十八年社殿、同四十三年神楽殿の再建を完成した。(神奈川県神社誌より)

境内掲示による新田神社の由緒

社伝によれば、新田義貞公が延元三年(一三三八年)七月二日、越前国藤島(現在福井市内)で討死の際、その臣亘新左衛門尉早勝が公の差添の名剣と七ツ入子の名鏡及び錦の陣羽織の三種の品を得てこの地に携えて帰り、ひたすら冥福を祈って供養していたところ、里人らも公の得を追慕し、その三種の形見を早勝に乞い早勝と共に永和元年(一三七五年)七月二日清浄の地を求め孤松の下にて埋納し、廟を営んで新田大明神と崇め、この地の鎮守とし里人武人らの信仰が厚く祭田の寄進もあったと伝えられております。
また俚伝によれば、正月元旦と七月二日の暁にはこの地に軍馬が嘶く声がすることがあり、これは河北矢口村(現在東京都大田区内)に鎮座されている公の二子義興公が父霊のもとに参るためと言われておりました。
明治六年村社に列格、後幣帛料供進神社に指定。戦禍により建物悉く焼失したが昭和三一年社務所、同三八年社殿、同四三年神楽殿の再建を遂げ、平成三年社務所を改築した。(境内掲示より)

境内社姥ヶ森弁財天の由緒

昔「姥ヶ森」あるいは「森山」と呼ばれた地(現在鋼管通三丁目)に鎮座しておりましたが明治末年合祀令により新田神社に遷されました。
その森には新田義貞公寄進の馬場と御手洗の池があったという伝えがあります。
当弁天社と稲毛神社とは極めて縁が深く古より同神社祭礼の大神輿巡幸の御旅所で現在も毎年八月三日御巡幸になり、その際御手洗の池の跡と伝える井戸から汲んだ御神水を大神輿に振り注ぎ神霊を鎮めると共に、当神前で神奈川県の文化財に指定されている宮座式が古式床しく行われます。(境内掲示より)


新田神社所蔵の文化財

  • 宮座式(神奈川県指定文化財)
  • 亘新左衛門尉早勝の墓

亘新左衛門尉早勝の墓

言伝えによれば、当社創設に深くかかわる新田義貞公の臣亘新左衛門尉早勝が領地であった渡田村で永和三年(一三七七年)七月二日没した後、里人がその旧居跡(現在渡田三丁目)に祠(御霊社)を建立し、傍らに墓石を建てその霊を鎮めていたが明治末年当社境内に移されました。
亘新左衛門尉早勝は、粟生左衛門尉忠良、畑六郎左衛門尉時能、篠塚伊賀守重廣と共に新田義貞公の勇猛な家臣四天王の一人でした。渡田、小田地区には四天王の末えいと伝える家系があり、また当地区の急速な開発前には四天王縁りの塚もありました。
また昔は渡田村を亘田と書いたという伝えもあります。(境内掲示より)

新田神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 神奈川県神社誌

関連ページ

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