十寄神社|新田義興公の主従を祀る
十寄神社の概要
十寄神社は、大田区矢口にある神社です。十寄神社は、新田義興公が正平13年(1358)矢口の渡で主従ともども憤死、祭神らの忠烈を崇め村老らが墳墓を築き創建したといいます。
社号 | 十寄神社 |
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祭神 | 源朝臣新田左兵衛佐義興公の支族および近習の将兵 |
相殿 | - |
境内社 | 矢口神社 |
祭日 | 春季大祭4月10日、例大祭10月10日 |
住所 | 大田区矢口2-17-28 |
備考 | 旧今泉村の鎮守 |
十寄神社の由緒
十寄神社は、新田義興公が正平13年(1358)矢口の渡で主従ともども憤死、従者らの忠烈を崇め村老らが墳墓を築き創建したといいます。従者数には諸説ありますが十騎とし、十寄と号したといいます。
境内掲示による十寄神社の由緒
正平7年2月15日(1352)足利尊氏追討のため宗良親王を奉じ挙兵した新田義興公に祭神らも従って人見原(府中市)金井原(小金井市)小手指原、高麗原(埼玉県)で戦い遂に鎌倉を占領、一時は東国八州を治めた。世にこの戦を武蔵野合戦と云う。
正平13年(1358)4月20日足利尊氏の死により足利基氏は新田義興公の勢力を恐れ北武蔵の安定化のため義興公の謀殺を図った。足利幕府執事の畠山国清は、武蔵野合戦で義興公に従った竹沢右京亮、江戸遠江守、江戸下野守と奸計をめぐらし、それぞれの所領没収の罪科に処されたと偽称せしめ義興公に救援挙兵を求めさせた。義興公はこの謀略にかかり竹沢・江戸らと合流して足利基氏・畠山国清を討つべく正平13年10月10日その支族および近習の将兵十数名とひそかに鎌倉に向うため多摩河矢口の渡し舟に乗った。江戸遠江戸守らは予めこの舟に穴をあけていたため、義興公らは河中において進退谷まり遂に壮烈な自刃或は渡岸し江戸・竹沢の軍勢と奮戦したが悉く憤死した。(矢口渡・津の戦)
その後、祭神らの忠烈を崇め村老らが墳墓を築き社祠を興し一社の神として合祀して十騎神社と名付け南朝につくした功績を称讃した。(境内掲示より)
新編武蔵風土記稿による十寄神社の由緒
十寄明神社
新田明神より3町ばかり西にあり。義興の具せし従者の霊を祀れり。故に十騎明神といふべきを、いつの頃よりか十寄に書来れりと。又云左にあらず、昔徒寄とかきしとぞ、義興の人徒をあつめて祀りしと云義なりと。いづれもたしかなることなし。ことに太平記によれば、従者十三人と云ふ。その人々は世良田右馬助、井弾正忠、大嶋周防守、土肥三郎左衛門、市川五郎、由良兵庫助、同新左門入道信阿、南瀬口六郎、その余り五人の姓名は傳はらずといふ。按に太平記異本に、井弾正を井伊弾正興種とあり、井伊家譜によれば、弾正左衛門直秀と記せり。又異本太平記に市川五郎を五郎右衛門とし、南瀬口六郎が氏を大瀬口とあり、此八人の他に松田興市、宍道孫七、堺壱岐権守、進藤孫六左衛門等四人の姓名を加へ、又十三人といへるをも十二人に作れり。されは普通の本に十三人とあるは字の誤哉。あるひは義興を加へて主従十三人のことなるもしるべからず。是によれば従者は十三人、或十二人なるを十騎と云も疑ふべし。此十三人の人々、義興と同く亡ひしことは己に前(新田神社項)に見えたれば略せり。本社2間に9尺、拝殿2間四方、前に鳥居をたて十騎明神の四字を扁せ、本社の後背に古塚あり。これ十三人の印の墳にて、そのさま新田の社の塚に似たり。是も真福寺の持(新編武蔵風土記稿より)
「大田区の神社」による十寄神社の由緒
延文三年(1358)新田義興、従者十三人武蔵国、矢口渡に於て、江戸遠江守等の謀略のため、多摩川の河中に於て憤死せしを以て、里人、社殿を築き、一社の神に祭りたるものである。昔は十時明神といったが、いつの頃からか十寄と書いたという。(「大田区の神社」より)
十寄神社の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「大田区の神社」