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新田神社|大田区矢口の神社

新田神社の概要

新田神社は、大田区矢口にある、新田義貞の次男新田義興を祭神とする神社です。新田神社は、新田義興公が正平13年10月10日矢口の渡で憤死し、祟りを鎮めるため、村老達が塚を築き正平13年(1358年)新田明神社として創建したといい、延享3年(1746)には石城国(福島県)守山藩主松平頼寛が石碑(矢口新田神君之碑)を造立、太平洋戦争終戦まで府社に列格していました。

新田神社
新田神社の概要
社号 新田神社
祭神 新田義興公
相殿 -
境内社 稲荷神社
祭日 例祭日10月10日
住所 大田区矢口1-21-23
備考 -



新田神社の由緒

新田神社は、新田義興公が正平13年10月10日矢口の渡で憤死し、祟りを鎮めるため、村老達が塚を築き正平13年(1358年)新田明神社として創建したといいます。延享3年(1746)には石城国(福島県)守山藩主松平頼寛が石碑(矢口新田神君之碑)を造立、太平洋戦争終戦まで府社に列格していました。

「大田区の神社」による新田神社の由緒

正平13年(1358年)創祀。新田義興公は、正平13年10月10日畠山国清等の奸計により、矢口の渡に於て討たれ憤死した。このことがあってから、矢口の渡に夜々「光り物」が表はれ、往来の人を悩ましたので、村老等が墳墓を築き、社祠を興し、新田大明神として奉斎したのが始まりである。(「大田区の神社」より)

新編武蔵風土記稿による新田神社の由緒

新田明神社
村の中央にあり。新田左兵衛佐義興の霊を祀れり。社地は古より検地せしことなければ、歩数をしらずと云。縁起の略に云、新田大明神は、左中将義貞朝臣の次男左兵衛佐藤義興を祭れるなり。義興は妾腹の子なれば、兄 義顕討死の後も、三男義宗を嫡子とさだめられ、義興はあるにもあらぬ体にて、上野にあり。父義貞討死の後、建武3年8月北畠顕家鎌倉を攻しとき、義貞に志ありし武蔵上野の兵とも、義興を大将として顕家を救ひしかば、鎌倉合戦にうちかちて顕家とともに上洛し、吉野行宮み参りて後醍醐天皇を拝しけり。この頃までも徳壽丸とて童形なりしか、叡慮によりて元服し、かれは義貞が家を興すべきものなりとて、名を義興とぞ召れける。いく程もなく顕家流矢にあたりて逝去ありしかば、義興は又東国へ下向し年月を送り、正平7年義兵を起し、家嫡左少将義宗、伯父脇家刑部卿義助が子右衛門佐義冶と共に、武蔵野の小手指原にて尊氏と合戦に及しが、みかたの軍うちまけたり。此時義宗は笛吹峠をさして落行しに、義興義冶はなを尊氏を窺んとて鎌倉の方へ忍び行ける。塗にて石堂入道三浦介が六千余騎と行合しかば、其士卒をひきひて神奈川より又鎌倉へせめいり、大に戦ひて其氏をおひおとしければ、義興義冶もさきの恥辱を雪ぎ、あっぱれ大将と仰がれて暫く東八ヶ国の成敗をぞ司りける。これよりしばらくは相州河村の城に籠りしに、文和3年の春河村の城を落ければ尊氏は都へ帰り、基氏鎌倉に入替りけり。義興幼きより武勇人にこへ智謀類ひなく、大敵を破り鋭陣をとりひしぎしかども、時至らざれば武蔵上野の間に忍びてありしが、その後義宗義冶と同く越後の国へ城郭を構へ、半国ばかりうちしたがへけり。然るに上武の内義貞に忠ありて、基氏の家老畠山入道に恨を含む人々、連署の誓詞を以て無二の志を存する間、三人の中一人東国に忍びて御越あらば、大将に仰ぎ義兵を挙ぐべきよしを申入ける。義宗義冶二人は許容なかりしに、義興はもとより勇者にて兎角のかへりみに及ばず、朗等百余人を打つれたる旅客の姿に出立て、密に武州へぞ越ける。然るに東八ヶ国の内志を通じるもの出きしかば、龍の水を得たる心地して時を待てぞありけるに、基氏及び家老道誓入道、ほのかに聞て安からずおもひ、計策をめぐらしけれども、討得ることあたはず。ここに於て道誓ひそかに竹澤右京亮良衡にはかりけるに、もとより欲心盛にして情なき人なりければ、兎角に及ばず、左あらば御内の制法を背き、本国にかへりてはかるべしとて、これより爰かしこの傾城をあつめて日夜酒宴遊興にふけり。或はあまたの傍輩をあつめて博打してあそびけるに、或人此由を道誓に告たりければ、道誓偽りて怒り竹澤か所帯を没収して追出しけり。かくて竹澤は本国へかへりひそかに人を以て義興へ申入けるは、父にて侯入道故殿の御手に属し、元弘年中鎌倉の戦にも忠を抽て、某もまた先年武蔵野御合戦に忠戦を致し候へども、其後は御座所をも知り奉らざるにより、心ならず畠山入道に属して命を助りけるが、心中の趣気色にあらはれけるにより、させる科もなきに一所懸命の領地を没収せられ、剰へ討取べきよしにて候間、武蔵の陣を逃出候。近年某が不義を御免あらば、御奉行仕るべしとこまやかに申入けるに、義興猶もあやぶみて見参をゆるさざりけるにより、竹澤密に人を京都に遣して、ある宮の御所より少将と申女房をよび下し、己が養女として義興に侍せしめければ、さすがに義興も情をかけ玉ひ、のちのちは竹澤へもまみえられければ、竹澤悦び礼物あまた奉り、内の人々には一献をすすめ引出物など贈りければ、人々も悦あへり。かくて半年ばかりをすぎしかば、おのづから義興の心もとけて、いかなる密事をも告知らせけるにぞ。竹澤時分をはかり、9月13日夜の月のくまなくはれ渡るとき、義興を我館へすかしまねきて討とらんとはかりけるに、女房夢見あしきにより、夢ときに問へば、重き御慎にて候、七日か間は門内を御出有べからずと消息ありしにより、義興風気と称して夜の遊をやめければ、その計もむなしくなりけり。ここに於て竹澤計のあらはれしを疑ひ、少将をば翌夜ひそかに刺殺して、堀中へぞ沈めける。その後竹澤思ひをめぐらし、畠山が方へ使をはせて、小勢なれば一族江戸遠江守堯寛、同下野守能登を急ぎさし下され候はば、倶に評定して義興を討まいらせんとぞ申ける。入道悦て謀をめぐらし、二人が所領稲毛の庄十二郷を関所しければ、二人は稲毛に城郭をかまへ、一族以下五百騎招き集め、入道に向ひ一矢射て討死せんとぞののしりける。程へて遠江戸守竹澤を以て義興をむかへ、大将として鎌倉へ攻入べし、鎌倉には一族二三千騎はあるべし、その勢を以相州をうち従へ、東八ヶ国を推て天下を覆すの謀をめぐらさんとぞ申ける。義興も竹澤が執り申すことなれば、謀ごととはしらず、かへりてたのもしきことにおもひ、ひそかに武上常総の間に志を通ずるものどもをかたらひ、延文3年10月10日の暁義興忍びて立田、鎌倉へとぞ急がれける。江戸竹澤は矢口の渡の船の底を二所くりぬきて鑿をさし、向ひの岸には江戸遠江守が姪下野守と共に三百余騎にてひかへ、此方の岸には竹澤屈強の射手百五十人、遠矢に射とらんとぞたくみける。忍びの御事なれば大勢の従者はいかがとて、兼てよりぬけぬけに鎌倉へぞつかはしける。義興は世良田右馬助等僅に十三人を打連て、鑿をさしたる船にのり、矢口の渡をおし出す。中流に至りて渡守櫓をとりはづしたる体にて川に落し、二つの鑿を一時にぬき、二人の水主は水に飛入底をくぐりて逃去。又前後の岸よりは鬨をつくり、箙をたたきてたはかり申とはしらで、おろかなる人々のありさまを見よやとて、一度にどっとぞ笑ひける。水は湧入て腰の程に及ぶとき、井弾正義興を抱きてさしあげければ、日本一の無道人にたばかれけるこそ無念なれ、悪鬼となりて怨をむくゆべしとて、腰刀をぬきて左の脇より右のあばらまで、二刀切たまへ、井弾正も喉ぶえをかき切て自ら頭をつかみ、後へなげいたす。音二町ばかりぞ聞えける。世良田右馬助大嶋周防守二人は、さしちがへて川へ飛入、由良兵庫助同新左衛門は舟のともへに立ちあがり刀をとりて互に首を掻おとす。土肥三郎左衛門、南瀬口六郎市川五郎三人は袴の腰を引ちぎり、裸体になり太刀を口にくはへ川中へ飛入けるが、水底をくぐり向ふの岸へかけあがり、敵三百騎の中にかけ入、半時ばかりきりあひ、敵五人討とり、十三人に手をおはせ同じ枕に討れけり。其後水練を入大網をおろし、義興及び従者十三人の首を求め出し、酒にひたし、江戸竹澤等五百余騎にて、武州入間川なる基氏の陣へぞはせまいる。畠山入道斜ならず悦び、小俣少輔次郎松田河村等を召てみせければ、疑もなく義興の首なるよし申しけるにぞ。江戸竹澤は忠功抜群なりとて恩賞数ヶ所に給りけり。竹澤は猶も評判の与薫を尋んとて、入間の陣に止め、江戸二人は暇を賜はり恩賞の地へ下らんとして、十月二十三日の暮程に矢口の渡に着き、舟を待ほどに、先に舟をしづめし水主二人酒肴を用意して、己も恩賞に預らんと迎の舟をぞ出しける。此舟中流に至るとき、暴風雨起り白浪舟をただよはしければ、あはて騒ぎて漕戻さんとするとき、浪にうちかへされて水主楫取一人も残らず水底に沈みける。これただ事にあらず、いかさま義興の怨霊ならん。余の所より渡さめと遠江守は引返し二十余町川上の瀬に馬を早めて打けるに、雷夥しく鳴はためき、人家は遠し日は暮ぬ。助け玉へ佐殿と手をあはせて虚空を拝し、とある山の麓なる辻堂を目がけて馬をあをりける所に黒雲一むら江戸が頭の上に下り、雷電耳のもとになりひらめくおそろしさに、うしろをみれば義興緋威の鎧に龍頭の五枚甲の緒をしめ、白栗毛の馬の額に角のおひたるに乗て、あひの鞭をしとどめうちて江戸を弓手になし、径7寸ばかりなる椎股を以て、かひかねより乳の下かけて、ふっと射洞さるると覚へて、江戸は馬より逆さまに落ち、血をはきてたへ込んとしけるを、輿に乗せて門に舁付たれば、七日が間足手をあがき水に溺たる真似をして死にけり。その翌夜入間川には、畠山入道が夢に黒雲のうへに太鼓を打て、鯨波を作る聲しければ、何者やらんと見やりたるに、義興長二丈ばかりの鬼になりて、牛頭馬頭阿放羅刹とも二十余人を前後に従へ、火の車を引て左馬頭の陣中に入と覚へ、胸うち騒て夢覚ぬ。入道奇異の思ひをなし夢ものがたりをするも、いまだ終らざるに、俄雷おちかかり、入間川の在家百余、堂舎佛閣一時に灰燼となれり。その後道誓も罪を得て流浪の身となりて死けり。かくて矢口の渡には夜な夜な光物ありて、往来の人をなやます。野人村老集りて義興の亡霊を一社の神に祭り、墳墓をきづき竹樹を植て新田大明神と名づけける。これ延文3年10月なり。さればこの邊に立よる人は、忽神罰を蒙りけるにより神職をはじめ里人に至るまで近よらず。又いつのころよりか正月十日、十月十日二度の祭礼をこなひしより、年々おこたらずと云々此縁起は延宝年中林春斎のえらひしものなりといへば、多くは古書を閲して抄出せしならん今、太平記・神明鏡・南方紀傳等の書と参考するに、大抵はたがひなし。
本社。宮作、石壇の上にあり。壇の大さ2間に3間。
幣殿。4間に2間。茅葺なり。本社を少ばかり、へだてて前にあり。
鳥居三基。木にて作る。其中前にたてるものには新田大明神の五大字を扁す。
鐘。神楽堂の前にあり。銘文あれどもいとちかきものなれば略せり。楼もありしが、今は損壊して廃したり。
絵馬堂。3間に2間、拝殿に向て左にあり。
神楽堂。同ならびにて前の方にあり。2間に3間。
末社
稲荷社。同ならびにて、拝殿の脇にあり。小祠。
牛頭天王社。稲荷の脇にあり。尤小祠。
疱瘡神社。同ならびにあり。前に鳥居をたつ。
三峯社。同ならびの隅、古墳の方にあり。
稲荷社。拝殿に向ひて左の方別当本堂のならびにあり。
神馬殿。神楽堂に向ひてあり。神馬の形を作りて安ぜり。
新田義興墳。本社の後ろあり。墳の径7-8間、上に竹薮十竿生たり。人この墳に触る者あれば、忽祟ありとて、廻りに柵をゆひまはし、竹のかれしも取去ることをおそれてそのまますておけり。相傳ふ此墳は義興の屍及びその時の舟をこほちて埋みし印の塚なり。そのかみは玉川今の墳の後をながれしにより、川邊の方を正面としてきつきたるゆへ、社をいとなむに及て墳前菜地なかりしかば、後の方へみやつくりせしかど、今に正面の方へも石の鳥居をたてり。墳の側に石碑あり。是は近き頃松平大学頭頼寛の建立なり。(銘文略)
別当真福寺。
除地1段22歩、社地に隣れり。新義真言宗高畑村宝幢院末、義興山明王院と号す。昔はわずかなる庵室あり。其頃は神守院と号せしに、寛文年中検地ありし時除地を附けられ、つひに一寺となり。その後本尊不動を安置して今の院号に改めたり。開山の僧はその名を失す。中興開山宥真は寛保2年9月29日寂す。本堂10間に7間。社地の方へよりてあり。
寺寶。
縁起二幅。延宝4年正月松平求馬政種寄附す。林春斎之文にして上左兵衛庸書す。書は上野加卜筆なり。縁起の略は己に前にのせたり。元文元年4月11日淳信院殿邊御遊歴の時、大久保伊勢守を以台覧に供へしといひつとふ。
義貞自詠掛物二幅。
義興墨蹟一通。右二品は土井氏より寄附す。
釜一口。義貞陣中にて用ひし釜ならんといへり。径1尺2寸計り。上州世良田にて掘出せしもののよし、其土人奉納せり。
義貞自作木像一体。これも世良田より出し廻国の僧道念といふもの納む。
矢十本。江戸遠江戸守が子孫北見若狭守重政が所蔵せし矢なりといふ。
太刀二振。一振は昔よりの寺宝にして由緒を傳へず。一振は三州大樹寺より納めしといふ。
冑一頭。篠塚伊賀守が冑のよしにて、譲り状あり。これも土井氏より納む。(新編武蔵風土記稿より)


新田神社所蔵の文化財

  • 矢口新田神君之碑(大田区指定文化財)
  • 紙本着色新田大明神縁起絵(東京都指定有形文化財)

矢口新田神君之碑緒

延享3年(1746)に石城国(福島県)守山藩主、松平頼寛が造立した碑で、新田神社の祭神、新田義興公の事蹟と神社創建の由来を記している。
篆額の字は、頼寛の自筆で、撰文は儒者服部南郭、書は松下烏石(葛辰)である。
本区に数少ない江戸期の記念碑として注目される。(大田区教育委員会掲示より)

新田神社の周辺図


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本日休館