八幡神社(入間川)。狭山市入間川の神社

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八幡神社(入間川)。鎌倉幕府討伐に際し新田義貞が勧請、新田八幡

八幡神社(入間川)の概要

八幡神社(入間川)は、狭山市入間川にある八幡神社(入間川)です。八幡神社(入間川)は、新田義貞が鎌倉幕府討伐に際して元弘3年(1333)当地に勧請、新田八幡とも称され、入間川村の鎮守社だったといいます。慶安2年(1649)には八幡宮領五石一斗余、別当を勤めていた成円寺領一石余、及び成円寺境内の鎮守社牛頭天王社(現境内社八雲神社)領三石七斗余の御朱印状を江戸幕府より拝領、明治維新の神仏分離例に際して、成円寺は、八幡神社神職に復職、明治7年村社に列格したといいます。

八幡神社(入間川)
八幡神社(入間川)の概要
社号 八幡神社
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 八雲社、琴平社、大鷲神社、入間川神社
住所 狭山市入間川3-6-14
祭日 -
備考 -



八幡神社(入間川)の由緒

八幡神社(入間川)は、新田義貞が鎌倉幕府討伐に際して元弘3年(1333)当地に勧請、新田八幡とも称され、入間川村の鎮守社だったといいます。慶安2年(1649)には八幡宮領五石一斗余、別当を勤めていた成円寺領一石余、及び成円寺境内の鎮守社牛頭天王社(現境内社八雲神社)領三石七斗余の御朱印状を拝領、明治維新の神仏分離例に際して、成円寺は、八幡神社神職に復職、明治7年村社に列格したといいます。

新編武蔵風土記稿による八幡神社(入間川)の由緒

(入間川村附新田)
八幡社
當社は元弘三年新田左中将義貞當所出陣の時、氏の守護神なればとて勧請して、弓矢の行末を祈誓せしと云傳ふ、慶安二年社領五石一斗餘の御朱印を賜ふ、本社は宮造にて銅を以て屋根を葺き、屋根裏を始として花鳥の彫物あり荘厳いと貴く見ゆ、神體は束帶にて弓矢を探る坐像なり、又社内に太神宮。春日の二座を合祀す、社の廻り玉垣あり、神門を設て其内を廣前とす、左右に石の燈籠ありて前に石階あり、村の鎮守。成圓寺の持
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牛頭天王社
社領三石七斗餘、これも慶安二年御朱印を賜ふ神體は木像なり、村の鎮守、例祭は六月十五日神輿を出して宿中の假殿に移す。成圓寺の持
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成圓寺
天龍山薬王院と號す、新義真言宗にて郡中石井村大智寺の末、慶安二年寺領一石の御朱印を賜ふ、後しばしば回禄に遭て記録を失ひ、開基の由緒を傳へず、中興開山辰慧享保十四年二月四日寂す、本尊は大日を安置せり。
鐘楼。享保八年の銘あり。
金毘羅社。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による八幡神社(入間川)の由緒

八幡神社(狭山市入間川三-六-一四)(入間川字ホ)
入間川には当社と清水八幡神社の二社の八幡神社がある。
以下、「正徳三年癸巳九月十五日 東武南県賤士植島昭武謹記之」の『八幡縁起』によって由緒を尋ねてみる。
入間川村にある成円寺は数百年を経た密教道場で、寺の鎮守は牛頭天王である。入間川村は奥州道の宿場として栄え、村の鎮守は木曾義仲の長男義高の墓所に祀られた社である清水八幡である。
木曾義仲は当地に生まれ、幼い時父が殺されたため、乳母の郷里木曾で育ち、一五歳の時当地に戻り、結婚して一子義高をもうける。この時、家人が七カ所の清水を汲んで産湯としたところから、義高を”清水の冠者”と呼ぶ。源頼朝が伊豆に兵を挙げた時、木曾義仲もこれに加わる。義高は人質として鎌倉に住み頼朝の長女と結婚した。しかし、義仲が京で朝廷の不興をかい、粟津の原に討ち死にすると、義高も賊の一味と呼ばれ、当地に隠れたが、やがて追手に討たれ、当所に葬られる。この時、義高の妾の嘆きを哀れんだ母親(北条政子)は、義高の墓所に清水八幡を造営し、神田を奉納して菩提を弔った。以来近隣守護の社として崇敬される。応永九年八月に大嵐があり、入間川が氾濫し当社を押し流した。これより成円寺境内に移転する。
次に新田八幡であるが、正慶二年に新田義貞が鎌倉の北条高時を攻めた時、義貞の守護神八幡大菩薩の像を成円寺に奉納して戦勝を祈願し、大勝を得たので、八幡大菩薩の像を神体として、社を造営した。後に、清水八幡と並んで新田八幡と呼ばれた。
慶安二年に両八幡宮領五石一斗余、牛頭天王領三石七斗余、別当成円寺領一石余合わせて十石の朱印を受けた。
その後入間川村に疫病が流行し、村人が多く亡くなったので、成円寺住職某は寺鎮守牛頭天王に祈り”五香湯”の薬方を得て、これを施し、患者を救う。この薬は近隣に聞こえ人々は争ってこれを求めた。
この『縁起』に「新田八幡」と見えるのが当社である。本殿は享和二年の再建であり、周囲の壁面を中心に見事な彫刻に飾られている。正面扉脇彫刻裏に「上州勢多郡上田澤湧丸、並木源二襍訓作、享和壬戌夏六月彫之。上野國勢多郡深澤郷上神梅村、鏑木半二郎邦高彫之、享和二戌年六月ヨリ七月七日迄」の墨書がある。
『明細帳』に「元来八幡八雲両社ハ真言宗成円寺ニテ進退シ来リシモノ明治二年住職錟光寺ヲ廃シ神主トナリ青田義寛ト称シ、同七年村社八幡神社ノ社掌トナレリ」とあり、明治期の事情がうかがえる。
現在境内社となっている八雲神社は『縁起』の寺鎮守牛頭天王で、『風土記稿』に「牛頭天王社 社領三石七斗余、慶安二年御朱印、神体木像、村の鎮守」とあり、明治初めに社名を変更したものである。(「埼玉の神社」より)


八幡神社(入間川)の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿

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